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どうして急ぎ足になるのだろう。
旅館で借りた下駄を履き、息を切らせて裏庭へ向かう。浴衣と下駄では思うように足をさばけず走れない。恋人がほしいわけではないのに、自分みたいな男が相手にされるわけないのに、早く会いたいと焦燥が募る。
俺、やっぱり龍牙さんが好きなのか? 好きになってもいいのか?
竹林が生い茂る裏庭の石畳には、足元を照らす行燈が等間隔に置かれていた。純和風の庭園が行燈によって幻想的に照らされ、夢の中を走っているみたいだ。
紫に染まる宵闇の中、縁台に座って佇む着流しの龍牙が見える。絵になる美しい姿に見惚れたとき、龍牙がこちらに気づいて立ち上がり、優しく笑んだ。
「あんまり急ぐと転ぶぞ」
「だ、大丈夫ですよ」
「ならいいけど。来てくれてありがとな」
「い、いえ」
「怜央が東京へ帰る前に、どうしても、会って話がしたかったんだ」
彼の微笑みには甘さがあり、怜央の心臓がドキッと大きく脈打った。
龍牙の指先が怜央の耳元に触れ、茶髪をそっと耳にかける。
「浴衣、似合ってるよ」
「そ、そんなことないです」
指先が頬へ移動し、優しく撫でられて体中がかあっと熱くなった。
えっ、何? これ、どういう状況? 期待してもいい感じ?
「行こうか。うちを案内するよ」
龍牙に肩を抱かれ、怜央の心臓は壊れそうだ。
彼と一緒にドキドキしながら石畳の小道を進むと、眼前に一軒の大きな民家が現れた。瓦葺きの立派な日本家屋は、大家族がゆったり暮らせそうなほど大きい。
「ここが雨森家の本宅。俺の両親が住んでる。で、奥に見えるのが妹夫婦の家。角を曲がったところに俺の家もある。雨森家は大昔からこの地に住んで安居渓谷を守っている、古い家系なんだ」
広大な敷地にそれぞれの家。雨森家は大地主であり、安居渓谷の実力者なのだろうと容易に想像できた。唖然となる。
「す、すごいっすね」
「家はちょっとでかいけど、住んでる人間はごく普通の、素朴な田舎の人だよ。母以外は人間じゃないけどね」
龍牙がニヤリと口角を上げた。
「え? また天狗とか言うつもりですか」
「まあね。さあ、遠慮なく入ってくれ」
龍牙が本宅の引き戸を開けた途端、玄関先で高齢の夫婦が満面の笑みを浮かべ「いらっしゃい!」と出迎えてくれた。面食らった怜央は後退る。
「こ、こんばんは」
「キヨさんのお孫さんなんだってなぁ。いやぁ、噂通りかわいいじゃないか。あ、私は龍牙の父です」
「母ですー! キヨさんのお野菜、美味しくてとっても評判がよかったのよ。怜央君、ゆっくりしていってね」
龍牙の父は白髪こそあるけれどまだまだ元気そうな男前だ。母は目尻の皺が優しさを全開に感じさせる綺麗な人である。
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