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「ちょっと副社長、黒瀬様がお困りですよ」
女性に諭された男が「ああ、悪い」と言って手を離した。
この人、副社長なのか!
ギョッとなる。どうりでいいスーツを着ているわけだ。
男がわざとらしいほど残念そうにハアッと盛大な溜息をついた。
「怜央とは去年の暮れ、キヨさんの葬式で会ったんだよ。まさか覚えてないなんてな」
大好きだった祖母、キヨの葬式に参列してくれた人だったと知り、怜央は慌てて頭を下げた。
「そ、それは失礼しました」
「あんなに慰めてやったのに」
うげっ、まさか……!
唐突に、忘れたい記憶が脳裏を過ぎった。背中に冷や汗が浮かぶ。
「号泣する怜央の肩を、かれこれ三十分も抱いてやったんだぜ?」
「あら、そんなことがあったんですね」
女性がフフフと笑い、怜央の顔が真っ赤になった。
あのときの人だったのかー! めちゃくちゃ恥ずかしい!
半年前の祖母の葬式の日、幼い頃から大好きだったキヨ婆ちゃんの旅立ちが寂しくて、怜央は号泣した。恥ずかしいので畑の隅でこっそりと。
あのとき、そんな怜央のそばに寄り添い「泣きたいだけ泣けばいい」と言って背中をさすってくれた男がいた。怜央は誰だかわからない男の胸に抱きつき、子どもみたいに泣きじゃくったのだった。それは普段のクールなイケメン像が崩壊するほどの泣きっぷりだった。号泣したせいで男の顔はまともに見ていない。
あの男が副社長だったのだ。我ながらクソ恥ずかしい思い出だ。
「あ、あのときは、失礼しました」
照れ隠しに後頭を掻いてハハハと笑ってみせた。
「キヨさんが亡くなって、よほど寂しかったんだな。キヨさんの孫だって後から聞いたよ。もう立ち直れたのか?」
副社長はニヤニヤしている。
「う……からかわないでください」
「旅館の予約に黒瀬怜央の名前があったからさ、会えるのを楽しみにしてたんだ。ずっと会いたいと思ってたんだぞ」
俺に……? 半年前から?
優しい眼差しと甘い声音で、女を口説くようなセリフを言う。なぜかドキドキと胸が騒いでしまい、怜央は視線を彷徨わせた。口説かれているわけじゃないってのに、と内心で自分に突っ込みを入れる。
「な、なんで俺に」
「よし、再会を祝して今から二人で飲もう」
「へ?」
「おまえ、イケる口だろ? ここには日本酒専門のバルがある。平たく言えばダイニングバーとか、居酒屋だな。そこで酒を飲みながら飯を食おう」
ポカンとする怜央をよそに、副社長はスタッフの女性にいくつか指示を出した後、怜央の背中をバンと力強く叩いた。
「行くぞ。バルは本館の隣にある」
「行くぞって、そんな急に」
「そうだ、怜央が予約してあった料亭の夕食な、今さっきキャンセルした」
「はい!?」
驚いてさらにポカンとなる。
「大丈夫だ。夕食の材料をバルで使う。材料は無駄にならない」
「そういう問題ですかね!?」
「俺がもっと美味いものを作ってやるよ」
「副社長さんが作るんですか!?」
「そうだよ。期待していいぜ?」
余裕たっぷりの笑みを見せ、副社長は怜央の腕を引いて大股でずんずん歩く。足が長いので一歩が大きい。怜央はよろめきながら慌てて後に続いた。
なんつー強引な人だ。俺の都合はどうなるんだ。
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