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胸中で文句を垂れるが抗えない。この男には人に有無を言わせない何か、カリスマのようなものがある。
まあ、どうせ俺の都合なんて、大した用事じゃないか。
これからやらねばならないことと言えば、今日一日の仕事の報告書を先輩にメールするだけ。食事が終わってからでもできることだ。
スマホをズボンの尻ポケットに入れ、副社長の歩調に合わせる。
大きな自動ドアを通って外へ出ると、初夏の夜の湿った空気が肌にひやりと触れた。
「怜央、腹減ってるか?」
「それなりに」
「好き嫌いはある? 食物アレルギーは?」
「特にないっす」
「今どき珍しいな。オッケー、腕によりをかけて作ってやるよ」
闘志を燃やすような口調と笑みが頼もしい。
なんだこれ、ちょっと楽しくなってきた。
自分は今、思いがけない出来事に浮き足立っている。仕事のことは頭の片隅に追いやり、この状況を楽しみたい気分が高まっている。
怜央は東京の小さな探偵事務所で、探偵として働いていた。
と言っても、殺人事件を捜査したり、危険な裏社会に潜入したり、などというスリリングな仕事は一切したことがない。
探偵事務所は資産家の社長が趣味で始めた事業で、社員は先輩と怜央の二人だけ。小さな探偵事務所に舞い込む仕事と言えば、ほとんどが不倫調査と迷子のペット探しである。
そもそも怜央が探偵になったのは、ただの成り行きだ。高校三年のとき、悪霊に大学の受験票を隠されて試験を受けられず受験に失敗。浪人する気力もなかったので、仕方なく第二志望の大学へ進学した。しかし肌に合わず中退、バイト先の探偵事務所に就職した。
夢を持って探偵になったわけではなく、他に何か夢があるわけでもない。
給料はバイト代に毛が生えた程度。だから一人暮らしをする余裕がなく、実家暮らしだ。社会人として独り立ちしたいので、もっと給料のいい仕事に就きたい気持ちはあるものの、時間が不規則な探偵業に追われて職探しができず、ずるずると探偵を続けている。
今回、高知の山奥へ訪れたのも不倫調査の仕事だった。
依頼人は28歳の女性。昨年結婚したばかりの夫が、出張先の高知で知り合った女と不倫している、証拠を掴んでほしいという依頼である。離婚するために、夫の不貞行為の証拠を欲していた。
夫は出張と偽って二泊三日の予定で高知へ行き、女と『旅亭・雨ノ森』に泊まる。旅先まで追いかける不倫調査は珍しいが、依頼人たっての希望だった。
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