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偶然にも旅館のある安居渓谷は、怜央にとって母方の故郷である。事務所の先輩から、これはおまえが適任だな、と言われ、怜央が担当することになった。多少の土地勘もあるので、確かに先輩より自分のほうが向いている。
まだ新婚なのに夫に裏切られ、依頼人は強いショックを受けていた。聡明で綺麗な女性だった。美人と結婚したのに浮気するんだな、まあ浮気するやつはするよな、と先輩と二人で話したものだ。
そして調査の決行日が来た。季節は六月、梅雨の真っ盛り。
調査対象の男、倉田雅哉は不倫相手の若い女性を車に乗せ、満面の笑みで『旅亭・雨ノ森』に現れた。
怜央は駐車場から旅館までイチャイチャしながら歩く二人の様子を、眼鏡の縁に仕込まれた超小型カメラで撮影した。
縁に指を添え、小さなシャッターを押す。カメラつきの眼鏡は隠し撮りをするための、探偵の必須アイテムだ。怜央は普段、眼鏡をかけないため、重くて邪魔なこの眼鏡が好きではない。
そして自身もチェックインを済ませ、客室に入って一息ついたところでスマホが消えていることに気づいたのだった。落としたスマホを誰かがバルに置いたと考えるより、悪霊のイタズラだと考えるほうが妥当だろう。
悪霊はまったくもって油断ならない。気をつけなければ。
本館を出て美しい日本庭園を横切った場所に、バルはあった。
こぢんまりとした木造の建物で、一見すると離れのようにも見える。旅館の客が食後に飲み直したり、地元の友人同士で飲んだり、居酒屋のように使っていると副社長が教えてくれた。
バルの中は奥に長く、厨房とカウンター席があるだけのシンプルな作りだった。木の柱と白い塗り壁が、本館よりモダンな雰囲気を醸し出している。ほどよく薄暗い照明の下、ゆったりと流れるピアノ演奏のジャズが心地いい。
どこでもいいから座れと言われ、怜央はドアに近いカウンター席に、遠慮がちに腰かけた。
「ほら、これが俺の名刺」
「ども」
ひょいと渡された名刺には『株式会社レインウッド 取締役副社長 雨森龍牙』と書かれていた。レインウッドは『旅亭・雨ノ森』以外にも、地元でホテルやレストランを経営していると教えられ、感心するばかりだ。父親が社長で、龍牙は次期社長らしい。
「俺の名前、戦隊ヒーローの主人公みたいな名前だろ?」
ジャケットを脱いで黒いエプロンを身につけた龍牙が、キッチンで手を洗いながら笑った。雰囲気は狼みたいで怖いけれど、白い歯を見せて笑う顔は意外と無邪気で親しみやすい。結構気安い性格なのかもしれない。
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