黄金の茶室2

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黄金の茶室2

   その醍醐の花見から数日後、突然、有楽斎が召し出された。    何事であろうか、と大坂城の最上階に上る有楽斎。また淀が下らない我儘でも言っているのだろう、あやつも困ったものよ、と広間に足を踏み入れる。広間には夕暮れの光が差し込んでいた。誰もいない。何もない。ただ黄昏の光だけが満ちていた。有楽は目を凝らした。 「叔父貴殿、有楽よ。ここじゃ」  黄金の茶室が光の中に輝いていた。黄金の茶室は黄昏の光に同化し、存在していないようにさえ見えた。 「殿下、これは……」 「黄金の茶室で、いつかお前をもてなしてやろうと思っていたのじゃ。さ、遠慮はいらぬ。入れ」 「ははっ」    有楽斎は身を屈めて茶室の中に入った。瞬間、悪寒のようなものが背筋を這い上がった。目の前の秀吉は生きているようには見えなかった。白髪、老いさらばえた顔、節くれ曲がった六本の指、南蛮の商人から見せられた木乃伊だった。その中で眼だけが、静かにギラギラと輝いていた。得意満面に黄金の茶室を披露した時とはもう異なっていた。  無音で茶を点てた秀吉は茶碗を有楽斎の前に置いた。日は一刻、一刻と落ちていく。黄金の茶室内が徐々に赤く、そして闇へと落ちていく。すべてが変わっていく。あらゆる色彩が時と共に移ろい失われる。黄金天目茶碗がまるで黒茶碗だった。黒茶碗ではない。陽の没する直前の黄金の光を一条、映していた。  有楽は戦慄した。  無だ。無なのだ。殿下の金への異様なまでの憧れは兄信長の真似ではない。無の表現なのだ。黄金をして無としたのだ。  古今伝授を受けたほどの歌人で有楽斎も教えを乞うた、大名の細川幽斎が以前、秀吉に和歌を教えたという話をしばしばした。あまりに下手で仲間内で笑いの種として披露していたが、今は、まったくその話をしなくなった。秀吉が会心の出来だといって鼻をうごめかせて詠んだ歌を有楽斎に見せた。「あはれこの柴の庵の寂しきに 人こそとはね山おろしの風」黄金の大坂城を粗末な藁葺家に例えたのだった。正直、感心した。生まれ卑しい権力者とは思えないような歌だった。「なかなか殿下も歌が達者になったではないですか」と何の気なしに幽斎に話をしたところ、幽斎は沈黙した。心底、打ちのめされた表情だった。そう、秀吉の歌は博識を誇るがゆえ、古今の名歌を越えられない幽斎をも越えてしまっていた。藤原定家の「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」を自家薬籠中の物とした。利休の侘びを超えるスケールの「もののあわれ」を表現した。    ここには黄金天目茶碗も茶室も黄金も無い。殿下すらいない。ただただ、生き延びた私だけが、黄昏に置かれたのだ。  西方浄土の永遠の黄昏、夕暮れの無の世界。大いなる空虚の姿。それが贅を尽くした権力の象徴、黄金の茶室の真の正体だった。    黄金天目茶碗を手に取る。不気味なほど軽かった。有楽は茶を喫した。 「結構なお点前で。恐れ入りました」  平伏する有楽。  おもえば、これを見せびらかす茶室、派手すぎと評した己こそ、よくよく見る目のない、愚か者であった。秀吉に嫉妬していた小人だった。 「時に……上様が亡くなられたおりに」  何を言い出すのだ、と有楽斎は戸惑った。 「その方、御所から逃げたという。そののち、明智に助けられたのではないか?」  なぜだ、なぜ知っているのだ。長年隠し続けた有楽斎にとってもっとも後ろ暗い事実。それを関白秀吉が知っている。全身から冷や汗が噴出す。 「で、殿下……」 「いや、別にとがめだてなどせぬ。明智のおかげで余は天下人になれた。明智が上様を殺さずとも柴田か、徳川か余が殺っただろうて。上様は最期まで人使いが荒くてみなに疎まれていることを気づかなんだ。本能寺で腑に落ちない顔をして亡くなられたであろう」  秀吉は本当に茶飲み話でもしているかのように語った。 「最近、夢に見るのよ。我が子らが不憫でならぬ……信孝、信雄、三法師(秀信)に領地を返せと、すごい剣幕の上様をな」  有楽斎はがくがくと震えだした。 「まあよい。明智とお主の茶は似ておるからな、数寄を受け継いでほしくて叔父貴殿の命を助けたのではないかとおもったのよ。明智もそれは唐物趣味で物持ちだったし、なんじゃ、華やかではないが綺麗で明るい茶を点てていたからな。なんとなくそう感じたのだ。そうか、当りか」  謀反人と知られるあの光秀の数寄と己の数寄が似ているなど考えたこともなかった。まったくの盲点だった。しかし、皮肉なことに兄信長を殺した光秀に憧れたことはあったし、光秀の茶会はなんともいえない、居心地のよさを感じた。同じものを美しいと感じる者だけの爽やかさがあった。秀吉の美への確かな眼力に完全に打ちのめされた。    天守はますます暗くなっていく。  黄金の天目茶碗が夕陽の最後の一瞥を受け赤く光る。 「のお、有楽。秀頼は余が子として育てる。それ以外あるまい。儂はな、あ奴らが哀れでならぬ。末路がみえるのだ」  冷や汗がだらだらと流れ落ちる。やはり、とは思っていた。が、同時にまさか、とも思っていた。秀頼は秀吉の子ではないのだ。奥御殿の中、淀はいったい誰と密通したのだろう。夕闇が濃くなる中、有楽はなぜか奈落にいるような恐れにとらわれた。茶室に残る金色の残光のみを見つめる。 「おおよそ見るべきことは見た。あとは明に我が国の力をば見せつけ、イスパニヤなどが三国を使役して、我が天朝を攻めようなどと滅多な異心を抱かぬよう、朝鮮は領土とする。朝鮮を城にして日ノ本を守る」  武力と経済力を独占した秀吉だったが、己の出自は変えようにない。だから権威として朝廷の官位を求めた。それは本人の意図しないところで、朝廷の権威を高めていた。秀吉は次第に熱心な朝廷の擁護者、天照大御神の信者となっていった。絶大な権力者が、自らを空しくして神の末裔の前に跪く。秀吉にとって朝廷と日ノ本が救いだった。権力を放棄したゆえに権威を独占する、真空ゆえに満ち満ちた力こそ日ノ本の礎だった。その力に仕え同化する。それは天皇を、始皇帝となり権力でもって超えようとした信長を構造上、枠組み、その美しさにおいてはるかに凌いでいた。 「みな、朝露よ。余もそなたも利休も。俺はそこにこそ救いがあるような気がする。宣教師どものいう救いなどは日ノ本には合わぬわ」 「殿下の成し遂げられたことのみは、のちのちにまで残りますれば」  有楽斎は声を絞り出す。    あなたこそが真の天下人だ。現世の権力を己一代のみで終わらせる。  前に利休は朝顔を見せると言って、外の朝顔を全て刈取り、一輪のみ花入れに生けて見せた。あれは本当に利休の発案なのだろうか。北野大茶の湯を一日で終わらせたのも、ただ一度、ただ一瞬だけの美しさをこれ以上なく豪緒を惜しげもなく捨てることで、もののあはれ、を表現したのだ。利休が殿下を憎んだのは幽斎同様、嫉妬ではなかったか。茶の湯一筋の自分ではなく俗臭ぷんぷんの権力者が日ノ本の美にもっとも祝福されたという事実に利休は耐えられなかった。あとは神にでもなるよりほかない。  日ノ本の歴史の中で唯一人、百姓から天下人になり、天朝を守護し奉り一代で終わらせる。一生をもって日ノ本の美しさを示す。これほどの天下人があるか。全ては無であるということを諦観でなく誇りを込めて黄金の茶室に現したのだ。豊臣秀吉こそ、もののあはれ、の極地なのだ。  殿下は美の体現者だったのだ。 「それはのちの人間が勝手気儘にすればよかろう。それより有楽、これぞ、と思うお主の茶室を作って余に披露せよ」  秀吉は射るような目で有楽斎を見据えていた。お前は何者だ。いったい何をしてきたのだと問う目だった。  黄金の茶室から光が消えようとしていた。
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