関ヶ原

1/1
前へ
/15ページ
次へ

関ヶ原

 八月。夏の盛り。日輪が海の果てに去っていた。黄金の夕焼けが終った。 「露と落ち露と消えにし我が身かな。浪速のことは夢のまた夢」 朝鮮出兵も終わりをつげた。口にこそ出さないが、朝鮮の地が荒れ果てたと聞いて有楽斎の胸は痛んだ。  やたらと朝鮮を戦場とするなら井戸茶碗の名産地が滅んでしまう。多くの大名が陶工を連れ帰ってきたという。現地の陶工は貧しい暮らしを強いられており、高禄で召抱えられるのは願ってもないことであろうが、異国に無理矢理連れてこられる者たちの気持を考えると、どうにも釈然としないものを感じた。だいたい、土が違うのだから、陶工だけ連れてきても井戸茶碗など作れまい。ますます唐高麗ものの伝統ある茶が廃れてしまう。最近は志野、瀬戸、また利休の高弟であった古田織部などが作陶を指導していて評判だが、あの黒茶碗よりはよいが、やはり井戸茶碗に一歩劣っている。  天に二日無し。黄金の夕焼けの後、短く緊張した夜が続いた。有力な徳川と石田の間で争いが起こったのだった。  関ヶ原の合戦。  とにかく勝ちそうな側、負けてもよい側につく。それが有楽の選択だった。いまさら武功などあげたくもなかったし、殺されたくなかった。織田家の一員として武名をあげることを願っていたはるか昔。若気のいたりとしか思えなかった。  慶長五年。冷たい霧の中、静まり返った軍勢がひしめいている。晴れることは永遠にないと思わせるような深い霧が立ち込めている。馬の嘶きが響く。   勝ちそうな軍の後方でウロウロして合戦が終わるのを待っているのがもっともよい。人望のない石田三成ではなく徳川家康の方が長期的にみて勝利するだろうと踏んだ。戦場の勘働きは最悪だが算盤勘定は確かだった。鉄砲を放つ音が木霊した。  しかし、小早川秀秋の寝返りにより、関ヶ原の合戦は東軍の圧倒的優勢の下、終幕を迎えようとしていた。勝利は目前で西軍の残敵を掃蕩するのみだった。  有楽は、こうまであっさりと会戦が終了したことを、いささか意外に思いながらも内心は喜んでいた。  やれやれ、東軍についた私の目に狂いはなかった。やっと茶の湯に戻れる。      散らばる士卒の死体の山の中、槍を杖に一人の男が忽然とあらわれた。 「織田様、織田侍従長益様ではございませぬか。覚えておられますか。それがし、元蒲生家の家臣で横山喜内でございます。今は蒲生頼郷と名乗っております。おひさしゅう」 「おお、喜内殿か。存じておるぞ。私に会ったのが汝の幸せ。私が内府に命乞いしてやろう。さあ、ついて参れ」  茶の湯を通じて交流のあった蒲生氏郷の家臣で挨拶くらいは交わしたことがあった。何の疑いもなく有楽斎は喜内に声をかけた。やっと戦が終わったという解放感もあった。しかし、喜内はギラつく視線を有楽に向けた。 「これはこれは信長公の弟君とは思えぬお言葉。命乞いするとでも思ったか!」  突如、刀を抜き放ち、有楽斎めがけて斬りかかる。悲鳴を上げて馬から落ち、遁走した。勝負がついたのになぜ、殺しあわねばならない。恐怖にかられ逃げ回りながら、有楽斎は馬鹿らしさも感じていた。世に隠れもない臆病者のくせに、すべてを他人事のように思う奇妙なふてぶてしさは、長年煙に燻された梁のように黒光りするほど年期の入ったものになっていた。  不甲斐ない主君とはいえ、失ったら浪人である。部下が殺到する。横山喜内は大勢の部下に取り囲まれ討たれて、有楽斎が喜内の首をとる羽目に陥った。 「見事、見事、茶人大将有楽殿の初首じゃ」と家康は大仰に驚いて上機嫌な顔を見せたが目は笑っていなかった。同年の徳川家康は人質時代や信長が威勢を振るっていた時代、何度か家康と顔を合わせているが、その頃のパッとしない有様とはまるで違っていた。押しも押されぬ武人の鑑といった風格を漂わせていた。人間そのものが芯から異なるのだ。 「老いの似合わぬこと。恥ずかしい限りにございます」  周囲の名だたる大名、武将たちは揶揄と追従の笑いをどっとあげた。戦を愛する、武士の人生を誇りとする三河武士の間では未だに有楽斎は笑い者だった。その「有楽の武辺末の初物」は有名になった。  有楽斎といえば親しいとは言えないが、見知った人間の首などとりたくなかった。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加