黄金の茶室/如庵

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黄金の茶室/如庵

   煌く黄金の茶碗。茶杓で肩衝茶入れから挽いた茶を出す。茶釜が音を立てている。湯を汲み、茶を点てる。有楽の手前の流れには全く澱みも気負いも一切が無かった。   「いや、それがしも茶の湯で大名になったものですからな、どうにも肩身が狭うございます」と言った古田織部の恐縮した顔が、ふと浮かぶ。切支丹禁止令により、マニラに追放され客死した高山右近と並び、有楽斎を嘲笑ったことのない武士だった。酒席などで有楽斎が逃げたという話をして皆が笑い転げる中、織部だけが居心地悪そうにしていたという。織部は武士だった。自身が築き上げた価値を破壊されるくらいならば、いっそ死んだ方がマシであると。師匠の千利休同様、茶の湯が城でありおのが国だった。家康に対する叛乱の嫌疑を受け、弁解もせず見事に腹を切った。    有楽斎は第一人者にはなれなかったし、利休や織部のような茶の湯に賭け、己の美に生涯にかける覚悟も持ち合わせていなかった。ただただ生き延びてきた。信長、利休、秀吉という巨人たちの影に怯えながらただ逃れ続けた。恐れながら、また厭わしいと思いながら織田の家名にのみすがって生きた。どれほど惨めで恥ずかしく格好が悪くても生き抜いた。利休や織部や秀吉のように見事に生きる、ということができなくとも。  私に生きていないといった利休居士、それは違います。私は確かに生きたのだ。  この茶室は有楽斎が作り上げた渾身の茶室だった。利休の狭すぎる二畳敷きは客を苦しめる。四畳半から六畳がよい。狭いということは相手にも気を遣うから間隔を広くとれるようにする。二畳半+台目(〇.七五畳)が限界であると有楽斎は判断した。客に心地よく着座してもらうため、客人をスムーズに客座へ誘導する筋違いの囲いという斜めの壁も取り入れた。  最大の工夫は光を入れるため天窓をはじめとして、窓を多くし明るく作り、単調にならぬよう竹によって光が柵状に入り林間で茶を喫すような風情も求めた。自然の光を取り入れ、茶室内でありながら野点のような明るく爽やかな雰囲気をこそ出した。    如庵は残るだろうか。後の世に。    武士としてあるまじき者、それでも生き続けた有楽の不安と相反する安息、密かな自負が如庵にあった。禁教令が徳川の世になってさらに厳しくなる中、ジョアン、有楽斎の切支丹名をもじった微かな駄洒落のような反骨も込めた。    利休に茶室でどんな美をあらわしたいのか、そう問われて何も返せなかった。大きな秀吉に嫉妬しつつも、その美に心動かされ続けた。秀吉をはじめとして、自身が巨大さに怯えた利休も数少ない友といえた高山右近や古田織部も世を去った。逃げ出した上、嘘を言って生き延びたという負い目を持ち、自身を茶の道に進ませた兄信長も、その兄を殺し、自分と似た美意識を持つ光秀も既に過去の人だった。  如庵に織部も右近も光秀も、利休や信長も招きたかった。誰より・・・・・・太閤豊臣秀吉を。 「殿下、これが、私の黄金の茶室にございます」  午前の陽の光が落ちる黄金天目茶碗を掌中におさめる有楽斎。如庵はやわらかな明るさに満ちていた。ざわざわという松籟の音が楽しげな人々のざわめきにも似ていた。  老いた有楽斎の答えが如庵だった。 「北野大茶の湯の楽しさをここに」 『どうかな、ちと地味ではないか。叔父貴殿らしくはあるが』 「左様でございますか。本日はここに将軍徳川秀忠様をお招きいたしますのに」 『地味、地味……もっと華やかにするがいい』  人懐っこくかつ凄みのある狡さを含んだ秀吉の笑顔が浮ぶ。濃緑い茶を静かに湛えた黄金天目茶碗が暖かくきらきらと輝いていた。
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