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安土城
天正七年六月。ついに落成した安土城に長益は招かれた。山上に聳え立つ城はなるほど岐阜城のようではあったが、今までこの国になかったような異様な城だった。赤と金、黒に彩られたその城は話に聞く唐の城のようだった。
長い石階段をひたすら登る長益。蒸し暑く汗が流れ落ちる。
両側には家臣の屋敷が立ち並んでいる。どれも無理矢理山麓につめこまれているかのような不自然さだった。中には総見寺という寺まで建立された。御神体は信長そのものだという。
長益は、ようやく本丸にたどり着いた。昼夜兼行で完成させた城の石垣には取り壊した寺院や石仏を使用していた。よほど急いだのだろうとせっかちな兄の様子が想像できた。
中に入るとさらに長益は驚嘆した。高い。
四階までは吹き抜けとなっている。宣教師から聞いた西欧の寺院「かてどらる」とやらに似せたのではないか。中二階には能舞台までしつらえてある。いったい、この城で兄は誰に能を見せるというのか。中は金屏風で飾り立てられ、唐物趣味の三皇五帝やら孔子老子などの儒画、釈迦などの仏画に満ちている。五階は八角の建物で八卦をあらわしていた。最上階には信長が待っていた。
琵琶湖、近江一帯が一望できた。西日に湖面が輝いていた。南蛮渡来の金毛氈の絨毯のようだった。
「凄いだろう」
座敷をうろつき干柿を齧りながら、信長は悪童のような顔をした。
「茶を点てろ、源五」
最近、信長はさらに茶に傾倒しており、信長は茶の湯で何かわからないことがあると、必ず長益に尋ね、さも自分が知っていたかのように話を披露した。長益を便利な茶の湯字引だとでも思っているようだった。
信長の命に応じて長益は茶を点てた。貴人にするように信長に供する。信長は作法もなにもなく茶をぐびりと飲み干した。
「うまい」
呟くと、そのまま、つかつかと窓に寄る。金色の湖面が輝いていた。
「茶の湯はよい。私心を捨てられる。かような名物は欲そのものよ。値打ちをつけてやれば、焼いた土塊、鉄の塊を千金で買い求める。そうした欲の塊に囲まれて一服を啜ることで私心が去る。面白かろう」
今、信長は茶の湯御政道を実行していた。領地の代わりに茶会を許可し、名物を下賜する。名物を金や土地と同等の価値と見なすことで、信長は領地や金を損をせずにすむ上、価値のお墨付きを与えるということで権威者となり得る。実に巧妙なやり方だった。武田攻めの功労者として、広大な関東の地を与えられた滝川一益は「荒れ地をもらうより茶入れ珠光小茄子が欲しかった」と嘆いた。部下の愚痴を信長は許さなかったが、この話を聞いた際、機嫌よさげに扇を叩いた。関東の地より信長の持つ珠光小茄子の方が価値があることを皆が認めざるを得なかったからだ。
安土の最上階に西日が差し込み、すべてが黄金に輝いていた。
「俺は始皇帝となる……私心を捨て俺が天下そのものとなる。俺自身が日ノ本の国となる」
この城は古の秦の阿房宮なのだ。意味もなく唐趣味で飾り立てたわけではない。
「宗易よりは下手だが、お前は中々の茶人、数寄者よ。天下のすべてを織田が独占し、それぞれ領分に応じ、みなに分け与えねばならない。それが織田の、俺の天下よ。お前は宗易を超えて茶の湯の総攬者たれ。よいな!」
命令だった。
「しかし……」武人としての務めはどうなるのか、と言おうとした。
「斬るぞ」
信長が弟を斬るのははじめてではない。才も無いくせにまだ武将ごっこをしているつもりなのか、とその冷たい目は告げていた。
「はっ、兄上の仰せの通りに」
すぐに這いつくばる。
「そうよ、そうでなければならぬ。私心はいらん」
この豪壮な城では信長さえも小さくみえた。
帰りに光秀と行き会った。天王寺城の茶会以来、頻繁に招かれ、また招き返した。いつのまにか気安い茶人、数寄者同士の付き合いとなっていた。光秀の方にしても主君の実力の無い弟というのはライバルの武将たちよりもはるかに良い客であり、亭主であった。
「明智殿!」
「これは……長益様」
「あの城をどう思われますか、明智殿」
長益は何気なく聞いた。
「比類無きみごとな天下人の城と。古今東西かような城はありませぬ」
光秀は無表情で答えた。
「そうかな。やり過ぎのように思えます。兄上らしいとは思うが。兄上には内密に」
やはり明智もよくは思っていないのだろう。
のちの光秀は安土城には防火に問題がある点を指摘していたと噂に聞いた。城作りの名手の光秀らしかった。安土城は本能寺の変の際、焼失した。長益は光秀が放火したのだと信じていた。あの始皇帝の阿房宮のちゃちな模型、悪趣味の城を、かつては貧しい太平記読みだった尊皇家、風雅を解する武士は許してはおけなかったのだ。あの城一つ焼き払うため兄を殺したのだ。
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