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本能寺の変
天正十年六月。あの日がきた。自らが何者か思い知らせられる時が。
「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おたの原なる名を流す」
茶釜の沸々と滾る音に混じって、どこから、童の歌声がするような気がした。
騒々しい足音で目が覚めた。長益は信長の嫡男、甥にあたる信忠の側近として妙覚寺に宿泊していた。何かただならぬことが起こっていた。長益は起き出すと小者を呼んだ。
「どうした? 火事か?」
「いえ、夜襲です」
「夜襲? 馬鹿な。ここは京ではないか」
「それが……」
「惟任日向守光秀、謀反!」
誰かの叫び声が聞こえた。明智改め惟任殿が……信じられない思いだった。すぐに信忠のもとに駆けつける。
「すぐにも脱出を!」
逃走を長益はすすめた。金ヶ崎でも信長はすぐに逃げた。それで命を繋いだ。
「できぬ!」
信忠は普段は穏やかだが戦のときは信長を意識して真似ているのか、信長のように大音声をあげて威嚇するような目つきをする。
「ここで交戦し、父上をお助けする。それができなくば自害し火をかける!」
「早まってはなりませぬ! 今はいったん落ち延びるべきです!」
「あの惟任が、あの用意周到な男が逃がすと思うか。光秀に首は渡さん!」
「それでも万に一つの勝機に賭けて安土へ逃れるべきです。信忠様さえおられれば……」
京からの逃走という提案は、皮肉なことに長益にしては、唯一まともな戦場における判断だった。光秀は短兵急に今回のクーデターを進めたため、街道の封鎖はしておらず、安土への道はがら空きだった。
「くどい。叔父上一人で逃げればよい!」
信忠は怒声をあげた。
「二条御所に籠もるぞ。いかに光秀とて親王様に手向かいはできまい。そこで父上を待つ」
鎧の音がした。続く他の側近たち。
「いけませぬ。親王様を人質にとるような真似をしては後世なんと言われますか」
「どけ、臆病者、能無しの源五が!」
信忠は篭手をつけた右手で長益を殴りつけた。甥が叔父を殴ったのだった。そればかりか倒れた長益を何度も蹴りつけた。謀反した光秀への怒りをぶつけているかのようだった。日頃の言行から、信忠が長益を内心は小馬鹿にし、軽んじていたことを長益自身、薄々感じていた。しかし大勢の前で面罵され打擲されるとは思わなかった。
長益の唇が切れて血が滲み出た。呆然とする長益。何かが切れた。何かが折れた。いままで織田長益を支えてきた何か。織田の男、武将としての何かが。我知らない恐怖に襲われ、長益は逃げ出した。
信忠は奮戦し切腹した。さすがは信長の嫡男よ、と言われるほどの戦いぶりだった。命は失ったが恥はかかないですんだ。
一方、織田長益は鎧も身につけず、供も連れず、白々と明け行く京の町を駆けに駆けた。京の町は無人のようだった。なんとしても安土にたどり着こうとした。騒乱の起こっているのは御所と本能寺周辺のみのようだったが、人々も騒ぎに起き始めた。
長益は自分が場違いなところにいることに気付いた。群衆の視線を矢のように感じる。いかにも高位の武人といったなりの男が息を切らしている……
「おい、その男を捕らえろ!」
数人の男たちが長益を羽交い絞めにした。光秀の兵ではなく、光秀が雇った伊勢の乱波だった。先年、国衆による自治の国、伊勢は老若男女問わず信長によって殲滅された。生き残りは故郷を滅ぼされた復讐を誓った。信長への嫌がらせさえできればどのようなことでも請け負った。まして信長殺しの一翼を担えるなど正に本望だった。
「惟任様。怪しい男を捕らえました」
意気消沈した長益は光秀の前へ引っ立てられてきた。
「おお、長益様ではないか。さあ、早く縄を解け!」
光秀は喜色を浮かべた。長益が知る由もなかったが信長、信忠の首は未だに発見できなかったし、織田の名のある武将も光秀は討ち取ってはいなかった。これから首をとられるのだ。がくがくと膝が笑い、目の前が暗くなった。
「長益様、信忠殿を知りませぬか。貴殿は補佐役の一人でありましょう。それから上様……信長の行方は知りませぬか」
「明智、いや惟任、明智殿はなぜ、謀反を」
喘ぐように叫ぶ。こんなところで首を取られるのか、と思うと恐怖がこみ上げてくる。
「そのようなことは、どうでもよろしい」
妙に冷え切った光秀の声が響く。
「の、信忠殿は二条御所に籠もられた。あとは知らぬ」
「御所なら陥落せしめました」
「ならば、知らぬ」
青ざめた長益は知らぬ、知らぬと繰り返した。
「しかし、信忠殿が立派な最後を遂げたのにあなたは生きておられる。仮に信長が生きており、巻き返したなら長益殿はどうなりましょうな?」
「ひっ!」
長益の顔は青さを通り越し土気色になった。何も考えずにただ逃げ出してしまった。長益は頭を抱えた。
「私ならば長益様の御懸念を消せるのですぞ」
「抜け穴があるのだ! 本能寺に!」
口から出任せだった。何でもよいから光秀の歓心を買って生き延びたかった。
「ほう」
「南蛮寺に繋がっておるらしい。兄は逃げた」
「かたじけのうございます。長益様。あなたの貢献をこの光秀、決して忘れませんぞ。あなたは逆賊を討ち、日ノ本の国を救ったのです。あなたほどの忠臣はこの世におりますまい」
長益は顔を覆って泣きはじめた。結局、信長、信忠の首の行方はわからずじまいだった。ただ、この後、歴史上に信長の名前が出てくることはなかった。
「天下静謐の暁には、また共に茶を喫しましょうぞ」
別れ際に光秀がそう呟いたことを覚えている。長益自身もなぜ、光秀が自分を殺さなかったのか、わからなかった。茶人の誼で情けをかけたわけでもないだろう。光秀がまさか信長が逃げたという嘘を心の底から信じて恩に感じるわけもない。
その光秀も山崎の合戦に敗れて討たれた。真実とは逆に信忠に切腹を勧め、自分だけは見捨てて逃げたと長益は噂されていた。見てきたように火をつけるために集めた柴の中に隠れていたのだ、とも言われた。否定はしなかった。否定すればするほどみな噂は真実である、と思うことは間違いなかった。
長益は武士の風上にも置けぬ者……と名のある大名、武将たちから思われた。口から出任せで信長が逃げたといって助かろうとしたことを知られれば、恐らくはさらに軽蔑、嘲笑されるだろう。笑われるということは武士として最大の恥辱だった。あまりにも惨め過ぎる救いようのない愚かさと臆病さ。
変を逃れ、岐阜に逃げ延びた長益は一人、茶を点てて呑んだ。苦かった。その時、長益は決めた。腹も切らないし、出家もしない。逆に蛙の面に小便と抜け抜けとふてぶてしく、知らぬふりとして、開き直り、光秀に生かされたことを隠し、なんとしても生き延びる決意を固めたのだった。あとあと、死んだら信長や信忠と顔を合わせる羽目になる方が恐ろしかったのかもしれない、とさえ思った。それなりに遇してくれた兄信長への背信、信忠を見捨てて一目散に逃げたことに罪悪感がなかったわけではない。
しかしそれより恐怖の方が遙かに大きかった。その恐怖を抱え逃げ延び生き続けることを選択したのだった。しかし、周囲から見て、ともかく武士として織田長益は終わった。
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