待庵

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待庵

   天正十二年六月。墨を流したような黒雲が垂れ込めている。  長益は、ここ山崎の二畳敷の利休の茶室に招かれた。にじり口から茶室へと入る。なぜ、このような狭い入り口から身を屈めて入らなければならないのか……もっともな疑問に利休は身分に関わり無し、というのが侘び茶の心だと断じた。  中に入ると長益は驚倒しそうになった。茶室にしてはあまりに狭い。これが利休の案ずる新しい茶室なのか。雪隠ではないか……とにかく暗い。小さなまるで土牢の明り取りのような窓から日が差し込んでいる。  何の変哲もない竹筒に一輪の椿が活けてあった。軸には「何以生」とあった。ごく自然に酒や懐石が出され、ふのやき菓子が出る。中立ちを経て、利休は炭を直し、まるで空をきるかのように、茶を点て長益に出した。  旨い。  今焼の黒茶碗だった。  このようなものが高麗わたりの井戸茶碗より価値があるとは思えなかった。井戸茶碗の模倣として最近出回っている、荒地に雪が積もったような志野茶碗や、固さを感じる黄味のつよい黄瀬戸の茶碗の方がまだ風情がある。 「待庵と名づけました。これが新しい茶の湯のあり方の指標となるでしょう」 「利休居士の茶は禅のようであると専らの評判ですが、頷けます」  本心ではなかった。この茶の権威に跪くふりをしておかなければ、茶人としての立場も無くなろう。だが、こんなものを心で認めはしない。  利休は軽蔑するような笑みを浮かべた。 「まことにそうお思いか?」 「はい」 「あなたは周りをたばかり、己をも偽っておられる。とても茶の湯に精進する人間の資格などありませぬ。あなたが織田の名を持つから弟子にしているのです。あなた自身の茶に価値はない」 「な……」  血筋だけは織田家連枝である長益に、ここまでいう人間は今までになかった。 「あなたが口では言えないような隠し事をしていることは、この私にさえもわかります」  利休は不気味な、いたぶるような笑みを浮かべた。残忍な眼差しが長益を捉える。 「茶室とは自らを見つめ直す修練の場なのです。茶を点てると言うことは私にとって生きることなのです。あなたは生きてはおられない」  この狭い待庵では利休が果てしなく巨大に見える。まるで膨らんでいるかのような利休。安土城よりも、大坂城よりも。その中で黒茶碗がすべてを吸い込むかのような存在感を放っている。ここは当世の価値を征服しようとする利休の城塞だった。湿った冷気が長益の膝上まで這い上がってくる。 「関白様にも困ったものです。数寄者を集めて北野天満宮で大茶会を催すといいます」 「聞いてはおります」 「くだらないことです。茶の湯はここに極まりました。私の生き様と私の侘び茶をこの日ノ本の至高の価値とします。後世、すべての茶人は私を仰ぎ見、日ノ本も私の存在ゆえ数多の国々に知られるようになるでしょう。あまたの茶人あれど茶を点てるのは、この世に利休一人ばかりがいるのみです」  利休の言行には目に余るものが多かった。  西瓜に貴重な白砂糖をかけて菓子として供した飛喜百翁という茶人を、西瓜本来の味を活かせないのは茶人として似つかわしくない、と嘲笑した。また、ある摂津の茶人を不意に訪ねた折、茶人は驚き、暗いうちから庭の柚子のみで懐石を作り利休に供し、さても興趣深いことと利休が感心すると、高級品の蒲鉾が出された。この茶人は周到に用意し驚いた振りをしたのだと気付いた利休は辞去したという。  噂を伝え聞くたびに有楽は大人気ない、とさえおもった。甘くない西瓜に砂糖をかけるのも工夫の一つではないか、騙されたふりをするのも客の在り方ではないか。  客に恥をかかせてなんの茶か。    しかし、利休の傲慢さは満天下に我有り、と叫ぶ力を持つ利休自身の凄まじい生命力なのだ。尊敬せざるを得ない力と在り方。  長益は、それにまったく相対することはできなかった。信長を前にした時のように縮こまり、震え上がるしかない。 「あなたは待庵に何をみました」  利休は不気味な目で有楽斎をみつめた。半端な答えをすれば斬り捨てる、という無言の重圧を感じた。 「狭すぎ暗すぎます。二畳敷など人を苦しめるのみです」  必死でのどのひりつきを抑えながら答える。 「それが、あなたの偽り無き心ですか」  利休は満足げだった。 「あなたのような人に茶の道はわかるまい。あなたの茶は何もあらわせないでしょう」
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