利休切腹

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利休切腹

   天正一九年二月。利休切腹の時がきた。轟雷が天に響く。青白い稲妻が暗い空が彩っている。織田侍従長益あらため織田有楽斎は目を閉じた。    信長の三男、織田信雄が国替えを拒んだ責任をとるため、剃髪し形ばかりの出家をしていた。当初は無楽斎と号しようとしたが秀吉に「なんじゃそれは。無楽はつまらんのう。そうじゃ、有楽にせよ」と命ぜられた。号さえ決められたことを特段、屈辱とは思わなかったが、無楽というのは、いささか天下人の機嫌を損ねたようだった。天下人の側にいて無楽とは何事じゃ、ということらしかった。出家した有楽斎は高山右近の勧めでジョアンという切支丹の名前も手に入れていたが、これは道号のようなもので、熱心な切支丹ではなかった。数少ない友人である右近の顔を立てただけだった。    思えば利休居士は弟子の山上宗二が殺されてからというもの、わざと殿下の怒りを買うような行動をとっていた。直接、切腹の原因になったという今焼茶碗を売って暴利を貪っていたという行為も、いかにもこれ見よがしであった。大名や商人たちに「名物とは私が決めるもののこと」と放言したらしい。自らが復興した大徳寺山門に木像を安置したのも、手違いというよりわざと殿下を自らの像の足下をくぐらせるように仕向けたのではないか。いまや秀吉の右腕として実力をふるう石田三成も利休が朝鮮の役で西国大名に資金を流していることによわったと零していた。さらには茶室で殿下の活けた野のタンポポを捨てたという。天下人の面子を無造作に踏み潰したのだった。  有楽斎は茶道具を広間に持ち出した。利休居士から贈られた黒茶碗、魚籠の花入れ。手取り釜、「喫茶去」の軸を飾る。  利休居士が望んだものは時空を超えた権力、権威だ。利休はわざと殿下に殺された。そして利休の下心を殿下は見抜いた。ならば神にしてやると切腹を命じたのだ。我が朝には天神となった菅原道真がいる。耶蘇教のキリストは神の子にもかかわらず、自ら磔になり復活し最後の日に君臨するという。利休の野心は兄信長にひとしい。 「利休居士。必ず私の茶をあらわしてみせます」  雷がどこかに落ちた。これより千年、茶の神となる男の咆哮のようだった。
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