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見間違いだったのだろうか。
目元に手をやれば、黒縁眼鏡が当たる。眼鏡掛けっぱなし……つまり意識的にはオフの状態だ。
なら、やっぱり見間違い――と言うには、生々しい感覚が残っている。目の奥、目と脳の間に、黒い霧の残像がちらついていた。手も緊張で汗ばんでいる。
「顔色悪いね。少し休む? そこに椅子があるから」
水宮は湊斗を支えるように肩に手を回して、エレベーターから出る。一瞬身を竦めたが、廊下に出てしまえば何の変哲もない。普通の廊下だった。
気づけば、頭の中も妙にすっきりしている。
……叔父さんの知人の神社の聖域に入った時みたいな、不思議な感覚に戸惑った。
黒い霧を視た時のおぞましい感覚と、今のすっきりした感覚に差がありすぎて混乱する。何なんだ、ここは。
湊斗が考え込んでいる間に、水宮は心配そうな表情で椅子に座らせようとする。湊斗は首を横に振って断った。
「大丈夫だ。……それより、早く終わらせたいんだけど」
湊斗が促すと、水宮は「そう?」と言って湊斗の肩を支えたまま、廊下の奥へと進み始めた。湊斗の具合が悪いと思っているのだろう。ほとんど抱きかかえるような密着具合に、居心地の悪さを覚える。
「もう大丈夫だから、離せよ」
「心配だから。それに、この方がいいと思うよ。僕の側にいれば、君は安全だから」
「はあ?」
どういう意味か湊斗が聞き返そうとする前に、水宮が立ち止まった。廊下の突き当りの部屋の前だ。水宮はいつの間にか取り出していた鍵で開けると、ドアノブを握った。
「ここだよ」
「……」
湊斗は掛けていた眼鏡を外した。オンの状態――意識的に霊視をする状態にする。
水宮が扉をゆっくりと開く。
身構えた湊斗の視界に映ったのは、だだっ広い無機質な空間だ。
壁のコンクリートは剥き出しで、窓は一つもない。高い天井にはいろいろな形の照明が取り付けられていた。部屋には白いパネルや、撮影用の道具のソファーセットらしきものも置かれている。
ここは、確かに撮影スタジオだったのだろう。
だが、床には埃が積もり、ソファーセットには白いシーツが被せられて裾の方は紐で縛られている。天井の照明のいくつかは割れて、そのまま放置されていた。白いパネルは薄汚れ、部屋の各所に蜘蛛の巣が張られ、虫の死骸が落ちている。埃っぽく黴臭い空気は、長く換気していない証だ。
埃の積もり具合からすると何か月使われていない……なんて推理できる知識は、湊斗にはない。
だが、それでも違和感に気づいてしまう。
「……おい、水宮。あんた、先週ここで撮影したって――」
傍らに佇む水宮を見上げて、尋ねた時だ。
とん、と軽く肩を押された。
「え……」
水宮に軽く突き飛ばされた湊斗はよろけ、足元に転がっていた荷物につまずき、床に倒れ込む。
咄嗟で受け身も取れず、身体を打った痛みと衝撃で舞う埃に目を眇めながら、何とか身を起こした湊斗は息を呑んだ。
「……っ!」
ぞわっ、と一気に肌が粟立つ。
倒れた湊斗をたくさんの人が取り囲み、見下ろしていた。
真っ黒な、眼窩で。
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