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すん、と英美は小さく鼻を啜った。
とっくに昼休みは終わって、三限の講義が始まっている。三限に近代西洋史の講義があったものの、泣き腫らした顔で受けるのも恥ずかしく、英美は三限を休むことにした。
幸奈は心配して付き添うと言ってくれたが、自分のせいで休ませるわけにもいかない。なので、彼女に後でノートを貸してくれるよう頼んで、先に文学部の棟へと戻ってもらった。
英美は、工学部の棟の非常階段下で、鏑木と二人っきりになっていた。
いや、正確には二人と、猫一匹だ。しかも、一人は寝ている。
階段下のコンクリートに座っていた英美が傍らを見ると、鏑木は最初に見た時と同じ体勢で寝ていた。黒いウィンドブレーカーが微かに上下している。
「泣き止んだら起こして。四限までには落ち着くだろ」
三限に講義が無く元々ここで寝るつもりだったという彼は、泣く英美をよそに昼寝を続行していた。
幸奈は呆れて怒っていたものだが、鏑木は別に英美を放置したわけではない。
彼は、近くで「ぶぅぶぅ」と変な寝息を立てていた大柄な猫の首根っこを掴んだ。
黒色と茶色と赤色が混ざったサビ猫だ。少し太め……どっしりと貫禄のあるサビ猫を、鏑木は英美に差し出してきた。愛嬌があるようで、どこかふてぶてしそうな感じのする猫と目が合う。
「こいつに相手してもらって。……ブンさん、しばらく頼む」
ブンさんと呼ばれたサビ猫は、抗議するように身を捻り「ぶなぁぁぁ」と低い声で鏑木を威嚇した。鏑木はうるさげに頬を歪めつつ、「あんた若い女子好きだろ」と妙なことを言う。どうやら猫に向かって言っているようだ。
それでも猫が威嚇の声を止めないと、鏑木は溜息をつく。
「……後で煮干しやるから」
「なぁぁぁぁ」
「は? ちゅー〇? あんな柔らかいもんばっか食ってたら歯が弱るぞ。ただでさえ年寄りなんだし。それに塩分もカロリーも高いだろ、これ以上太ってどうす――」
「ぶなぁぁぁぁ!!」
「……わかったよ。まぐろ味な」
どすの効いた低い威嚇の声に、鏑木はもう一度溜息をついて、今度こそサビ猫を英美に渡してきた。
まるで会話しているかのような鏑木と猫のやり取りに、一瞬涙も引っ込んだものだ。猫を受け取ったものの、英美は戸惑いつつ鏑木を見る。
「あの……」
「そいつ、けっこう強いから。護衛代わりにはなる」
「ご、護衛?」
「なぁん」
鏑木の言葉に続いて猫が鳴く。先ほどの低い声は何だったのかと思うほど、可愛らしい声で応じた。「猫被りやがって」と鏑木は悪態をつくが、そもそもこの子は猫ではないだろうか。
英美が呆気に取られている間に、鏑木は寝床をセッティングして寝入ってしまい……今に至る、というわけだ。
三限が始まって、もう三十分は経っただろうか。
最初こそ、あの女性の姿を思い返しては不安が込み上げていたが、今はすっかり気分も落ち着いている。
時間が経ったおかげもあるが、隣でのんびりとする猫の存在も大きい。
英美のすぐ横には、猫のブンさんが座って尻尾をゆらゆらとさせていた。先ほどまでは、英美の膝の上に寝転がって、愛嬌を振りまいていたものだ。
赤茶交じりの毛を撫でると、ごろごろと喉を鳴らす。温かい体温に英美はほっとする。気持ちよさげに黄色い目を細める猫の姿に、思わず唇が緩む。
「……ブンさん、だっけ。鏑木君と仲良いんだね」
「ぶぬぁ」
ブンさんは鼻に皺を寄せて、少し低めの声を出した。否定するような声音だったので、ついつい笑みを零してしまう。なんだか本当に人間の言葉がわかっているみたいだ。
ブンさんは英美の手の下からするりと抜け出て、離れてしまう。怒らせたのかと心配した矢先、ブンさんがその体格に見合わぬ軽やかさでジャンプして、鏑木の腹の上へと着地した。
「っぐ、っ……!?」
襲撃に慌てて飛び起きる鏑木から、ブンさんはさっと飛び降りる。しれっとした様子で英美の側に戻ってくると、膝の上に乗ってきた。
そんなブンさんに、わき腹を押さえた鏑木が呻くような声を上げる。
「ブンさん、あんたなぁ……」
「なぁぁ~ん」
鏑木の責める視線には素知らぬ顔で、猫は英美の膝や太ももへすりすりと身体を擦り付けてくる。甘えるブンさんの姿に鏑木は顔を顰め「このエロじじぃ」と呟きながら、身を起こした。
眼鏡を掛けた鏑木はブンさんを睨んだ後、英美の方へと視線を上げる。その黒い眼差しに緊張しつつ、英美は頭を下げた。
「お、おはようございます」
「……」
鏑木はきょとんとした顔で英美を見た後、「おはよ」と小さな声で返してくる。
「あんた……変わってるよな」
「え!?」
「ま、いいや。落ち着いたみたいだし、説明してくれる?」
「あ……は、はいっ」
マイペースな鏑木に促され、英美はあの後ろ姿しか見せない女性のことを話した。
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