第二話 前金二千円でいいんですか?

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 ラベンダー色のニットを着た、後ろ姿しか見せない女性。  アパートの扉の前に佇む彼女は、近づけば姿を消しており、一度も英美に顔を見たことはない。  しばらく見なかったと思って安心していたら、今度は大学に現れて――。  一連の奇妙な出来事を英美が話す間、鏑木は短い相槌を打つだけだった。  話し終えた英美を、鏑木はなぜか眼鏡を外して、じっと見てくる。長い前髪の下から、細めた彼の目が覗く。  黒い目には、一体何が見えているのだろう。英美は緊張しつつ、彼の言葉を待つ。  やがて、鏑木は一つ息を吐いて、眼鏡を掛ける。 「……あんた自身には、何も憑いてない」  英美を見ながら、鏑木がきっぱりと告げた。 「女の姿は、今は視えない。ただ、残り滓みたいなものは視える。あんたの周りには、何かしらそういうモノがいるのはわかった。けれど、あんたに憑いているっていうより……扉の前とか特定の場所に憑いている、と思う。つっても専門家じゃないから、はっきりとは言えないけど」  鏑木の言葉は、きっと普通だったら鵜呑みにはできないだろう。  本当に視えているのか、でたらめを言っているんじゃないかと、幽霊や霊感を信じない人は、疑いの目で見ることだろう。  だが、英美は不思議と、すんなり信じることができた。幽霊らしき後ろ姿の女性を実際に見たせいもあるが、鏑木の顔も声も嘘をついているようには思えなかったからだ。  自分自身に女の霊が憑いているわけではないとわかって、英美は少しだけほっとする。だが、そうなるとなぜ自分の前に現れたのか。 「でも、だったらどうして大学にまで……」 「そこまではわからない。何かがきっかけであんたについてきたのか、元々その場所に何かあるのか。それとも……」  一応視ておくか、と呟いた鏑木が立ち上がる。  つられて立ち上がった英美に、鏑木は教室の場所を尋ねてくる。三限の講義中ではあるが、鏑木は構わずに文学部棟へと足を向けた。  ためらう英美を振り返った鏑木が「文学棟、わかんないから案内して」と言う。英美は慌てて彼の後を追った。  英美は、女性の姿を目撃した教室に鏑木を案内した。向かう途中、廊下では講義の入っていない学部生や院生とすれ違う。  教室が近づくにつれ、英美の緊張は高まる。またあの女性を見つけたら、と想像すると足取りは重くなった。  俯きがちに歩く英美に気づいたのか、鏑木がふとボディバッグから何かを取り出す。  食品を保存したり冷凍したりするときに使う透明のジッパー袋だ。男子大学生のバッグからやけに生活感溢れるものが出てきて、英美はぽかんとする。  中には三角形の白いものが入っており、鏑木は無造作に取り出して英美に差し出した。 「やる」 「え?」  反射的に受け取ったそれは、三角形に折り畳まれた白い和紙だった。中に何か入っているようで、手の上でかさりと音がする。 「これは……?」 「塩」 「塩?」 「塩は穢れを祓う。聞いたことないか? 葬式ん時とかにもらったり、盛り塩したりとか」  確かに、数年前、英美の両親が葬儀に参加した際、帰ってきて家に入る前に塩を肩や頭に撒いていた。  鏑木はジッパー袋をバッグに戻しながら、淡々と言う。 「穢れは水で洗い流され、清められる。その水がすべて流れ込むのが海で、海の塩はすべてのものを清め、海からとれた塩にも祓いの力がある……って、受け売りだけど。まあ、知り合いの神社でもらったやつだから、そこらの食卓塩よりは効果あるはず。結局は気休めだけどな」 「あ……ありがとう」  鏑木は気休めと言うが、彼の気遣いが英美の不安を軽くする。おかげで問題の教室が見えてきても、それほど怖くはなかった。
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