第二話 前金二千円でいいんですか?

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  *** 「――ねぇ聞いた? 川北先生のこと」 「ああ、たしか奥さんが研究室に乗り込んできて、離婚届けを突きつけたって……」 「ていうか結婚してたんだね」 「そうそう。なのに、うちの女子学生と付き合っていたんだって。しかも何人も」 「ええっ、何それ!? 最低じゃん!」  遠くから、学生達の噂話が聞こえてくる。食堂に向かう英美と幸奈(ゆきな)は顔を見合わせて、どちらともなく目線を落とした。 「……まさか彩子が、川北先生と付き合っていたなんてね」 「うん……」  ぽつりと呟く幸奈の苦い声に、英美も目を伏せる。  西洋文学史の講師である川北先生は、若くイケメンで女子学生から人気があったが、彼が既婚者であることを英美も初めて知った。  それに、既婚者でありながら女子学生数名と内緒で付き合っていたことも、その中に友達の彩子がいたことも。  彩子自身は、川北先生が独身と思い込んでいたらしい。今回の件でショックを受け、この数日は休んでいた。  しばらくはそっとしておき、落ち着いたら三人で美味しいものでも食べに行こうと、幸奈と一緒に計画を立てているところだ。 「あ……そういえばアパートの幽霊の件、どうだった?」  幸奈がぱっと英美の方を向く。 「あの後、工学部の……鏑木、だっけ? ちゃんと相談乗ってくれたんだよね? まさかぼったくられたりとか……」 「そんなことないよ! お祓い屋さんも紹介してもらえて……無事に解決したから」 「そっか……」  よかった、と幸奈がほっと息を吐く。 「なんかさぁ、噂で聞いてたより、案外いい奴だったのかな。ほら、前金も全然安かったし、猫好きだし」 「……うん」  英美は頷き、手首に着けたブレスレットに触れながら、昨日のことを思い返した。   ***  昨日の昼休み、英美が再び工学部の非常階段を訪れると、前にも見た光景が広がっていた。  ウィンドブレーカーを布団がわりに昼寝する小柄な青年の周りには、今日も猫が屯っている。その中の一匹、大柄なサビ猫は英美に気づき、のそのそと近づいてきた。 「ブンさん」  呼びかけると、なぁ、と返事が返ってきた。本当に会話しているようだ。笑みをこぼして、英美はブンさんの側に屈みこむ。 「ブンさん、これ、お礼です」  持っていた紙袋の中から、鏑木に頼まれていた猫用おやつを出すと、ブンさんは「ぶなぁ」と嬉しそうに鳴いてすり寄ってくる。  すると、他の猫も近づいてきて、おやつ欲しさに互いに威嚇し始めた。低い鳴き声が辺りに響く。  しまった、と英美が焦っていると鏑木が身じろいだ。 「……ぅるせぇ……」  のっそりと起き上がった鏑木が不機嫌に唸った。 「ごっ、ごめんなさい」 「……あ?」  目を擦り、眼鏡を掛けた鏑木が英美に気づく。「なんだ、あんたか」と呟くと、ぼさぼさの髪を掻いた。  英美を取り囲みおやつを狙う猫達を見て、状況を把握したようだ。鏑木が手で猫を追い払うと、ブンさん以外の猫は不満げながらも去っていった。 「ほんっと、食い意地張ってんな……」  きちんとお座りして梃子でも動かぬブンさんを、鏑木は呆れたように見やる。  鏑木に促され、英美はブンさんにおやつをあげる。ブンさんはごろごろと喉を鳴らしてチューブに入ったおやつを舐めた。  ご機嫌なブンさんを横目で見ながら、英美は紙袋を鏑木に差し出す。 「鏑木君。あの、これ、お礼です」 「お礼? ブンさんのか。あんまりやり過ぎると太るぞ、こいつ」 「あ、い、いえ、これは鏑木君の分で……」 「俺?」  鏑木は首を傾げながら受け取り、中を覗いた。中に入っているのは、保冷バッグと焼き菓子の詰め合わせだ。英美は緊張しつつ言葉を続ける。 「真澄さんに聞いて……その、甘いものが好きだって聞いたから、近くのケーキ屋さんでお菓子を少し。そこの焼き菓子おいしくて、それとミニクレープも有名で……」  袋を覗いていた鏑木が、ぱっと顔を上げる。  鏑木はいそいそと保冷バッグからミニクレープを一つ取り出した。「食っていい?」と言いながら、さっそくフィルムを剥いで食べ始める。 「……うまい」  鏑木は特に表情を変えないが、眼鏡の奥の目が嬉しそうに細められる。もくもくと頬張る姿はどこか幼く、同い年の男子なのに可愛くて、英美の頬は緩んだ。  鏑木の隣に腰を下ろし、英美は先日のことを謝る。 「あの、鏑木君。この間はごめんなさい。道路で待たせてしまって」 「……別に。あれは叔父さんが悪いから」
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