第三話 タダより恐ろしいものは無い

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「みずっ……!!」  水宮!?   ぎょっと目を瞠る湊斗みなとに、目の前の男は「みず?」と小首を傾げる。 「お水? 持ってこようか?」  綺麗な顔に柔らかな微笑を浮かべて、水宮は尋ねてきた。  湊斗はそれに答えずに、ばっと辺りを見回す。天井も壁も、本棚もパソコンデスクも――間違いない、ここは鏑木事務所だ。  叔父の事務所に、なぜ水宮(こいつ)がいる。  見慣れた場所に、見慣れない男。  笑顔の水宮は屈みこみ、ソファーの背もたれに手を置いて、湊斗の顔を覗き込んでいる。近い。相変わらず距離が近い男だ。  前もこんなことがあったと、既視感(デジャヴ)を覚える。 「なんで、お前っ……」  訳が分からず狼狽える湊斗だったが、そこに聞き慣れた声が降ってきた。 「ちょっと湊斗ー、いるんだったらお茶の用意して……あっ! ごめんなさいねぇ、(けい)君。そっちじゃなくてこっちのソファーにどうぞ」  ハスキーな声が、途中から甘い猫撫で声に変わる。  軽やかにヒールを鳴らして近づいてきたのは、鏑木真澄(かぶらぎ ますみ)だ。  肩までのストレートの黒髪に、綺麗にメイクされた細面の顔。シフォンブラウスに細身のパンツ。一見するとスレンダーな女性だが、湊斗の実の叔父で、れっきとした男性である。 「湊斗、あんたまた寝てたの? ああもう、お菓子も食べっぱなしで散らかして……ここはホテルでもネカフェでもないのよ」  腰に手を当てて呆れたように見下ろしてくる彼に、湊斗は困惑したまま話しかける。 「叔父さ――」 「ま・す・み・さん」 「……真澄さん、何でこいつがいんの?」  湊斗は目の前の水宮を指差して問いかける。  真澄は眉を顰め、「失礼よ」と湊斗の頭をスパンと叩いた。痛い。 「慧君ごめんね。うちの甥っ子、礼儀がなってなくて」 「いいえ、真澄さん。気にしないで下さい」  にこやかに会話する二人。  何なんだ。この二人は知り合いなのか。  叩かれた頭を押さえつつ状況を把握できない湊斗に、真澄が命令する。 「ほら湊斗、今すぐテーブル片付けなさい。それから、お茶……慧君はコーヒーの方がいいかしら? 湊斗、コーヒー二人分淹れて」 「なんで俺が……」 「あんたが食い散らかしたフロランタン。秋絵(あきえ)さんの大好物で、月曜日のおやつにって楽しみにしてたのよね」 「……」  秋絵は、鏑木事務所の唯一の従業員。経理やその他諸々の事務を担当する女性だ。  二児の母親でしっかり者の彼女は、面倒見がよい。土曜の今日は休みで不在だが、事務所にふらりとやってくる湊斗を、いつも何かと世話してくれる。まるで母親のような秋絵に、湊斗は頭が上がらない。  黙り込んだ湊斗に、「代わりのお菓子を買うの誰だと思ってんの」と真澄が追い打ちをかけてきた。  湊斗は渋々ソファーから起き上がる。傍らの水宮が「僕も手伝うよ」と言ってくるが無視した。 「こら湊斗。あんたいい加減にしなさいよ。ああ、慧君はこっちでゆっくりしてていいのよ。今日はお客様なんだから」  真澄の声を背にしつつ、湊斗は給湯室でインスタントコーヒーを手に取る。しかしそれを見越したように、「豆から淹れなさい」と催促がかかった。  湊斗は仏頂面でコーヒーメーカーに挽いた豆をセットした。なんで俺があの水宮のためにコーヒーを淹れなきゃならんのだ。くっそムカつく。  黒い液体が抽出されるのを苛々と眺めていたが、一人でいると次第に落ち着いてくる。……いきなりの水宮の登場に驚いて、先ほどは狼狽えてしまったが。  真澄と水宮は知り合いだったのか。  どういう関係なのだろう。名前で呼び合うということは、昨日今日の知り合いじゃないだろう。  ……まさか、祓い屋仲間?  すでに知り合いで、だから湊斗のことを水宮は知っていたのだろうか。  つらつらと考えていれば、コーヒーの抽出が終わる。考え事もそこで止めた。  深く考えたところで仕方ない。水宮とは関わりたくない。この間みたいになってたまるか。  ……よし、コーヒーを出したらとっとと帰ろう。  そう決めて、淹れたコーヒーをなみなみとカップに注ぎ、応接スペースのテーブルへと運んだ。水宮と真澄の前に置いて、さっと身を引く。 「んじゃ真澄さん、俺帰るわ」 「待ちなさい、湊斗」  呼び止められて嫌な予感しかしない。湊斗はそろそろと後ずさった。 「あー……俺、用事があるんだけど」 「用事があるんならここに来ないでしょ、この暇人。逃げるんじゃないわ、仕事よ」 「……」  あからさまに顔を顰めてみせた湊斗に、真澄が注意する。 「ちょっと、お客様の前でなんて顔してんの」 「客って……こいつが?」 「だから失礼なのよ、あんたはもう……」  たしなめる真澄だったが、水宮は鷹揚に笑う。 「いいんですよ、真澄さん。湊斗君には大学でお世話になっていて」 「はぁ!? お前何言って――」 「ああ、そういえば二人とも同じ大学だったわね。なぁんだ、湊斗、友達できたの? よかったじゃない」 「よくないし、そもそも友達じゃねぇよ!」  誰が友達だ。  しかも“湊斗君”呼びだと? 馴れ馴れしいにも程がある。  なのに、水宮は「湊斗君は照れ屋で素直じゃないですよね」なんてにこやかに真澄に言う。真澄も真澄で「そうなのよ、この子ってば不器用な性格でねぇ」なんて余計なことを返した。  二人から生温かな目線を受けた湊は頬を引き攣らせる。今すぐこの場を立ち去りたい。  だが、真澄にソファーに座るよう命令され、かつ水宮に腕を掴まれて逃亡を阻まれた。 「さて、仕事の話をしましょうか」  水宮の隣に座らされた湊斗に、真澄が赤い唇の端を上げた。
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