筋肉猫

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 目を覚ますと、僕の部屋で見知らぬ猫がスクワットをしていた。  六畳一間のフローリング。部屋の大半を占領しているのはベッドだ。  タンス替わりの三段衣装ケースとアルミのハンガー。  細長いパソコンデスクを置けば、人が居住できるスペースは限られる。  そのわずかなスペースで、猫は一心不乱にスクワットをしていた。  裸の大将のようなランニングシャツに短パン。首にタオルをかけて。 「や、お目覚めですにゃ」  僕が起きたことに気づいた。  タオルで額の汗を拭うと(猫の額らしい額だった)、そのままスクワットを続けた。  そこは止めるところじゃないのか?  普通(この場合、何をもって普通と言うのだろう?)、人の家でスクワットをしている最中に家人が目を覚ましたら、中止するものではないのか? 「あと200回やってしまいますから。ええ、そんなに時間はかかりません。本間さんは寝ていてくださいにゃ」  この猫、僕の考えていることが読めるのか?  ていうか、寝れる?この状況で。  寝起きのぼんやりとした頭で、昨日の夜のことを思い出してみる。  僕の部屋にはよく人がやってくる。  大学の近くに下宿しているため、サークルのメンバーやクラスメイトの溜まり場になっているのだ。  だから(男性だけだが)、よく部屋に人は来る。でも今まで猫が来たことはない。  昨日も男四人で狭い部屋にくっつき合って、雀卓を囲んでいた。  ジンをサイダーで割った無茶苦茶な酒を飲んで、スナック菓子を食べ散らかして、タバコを吸って吸って吸って。  あれ?いつもだったら、酒の瓶やらお菓子の袋やらが散乱して、無残な姿を晒しているものだが、今朝は床がきれいだ。  それに、灰皿はどこ行った?やけに空気がきれいなんだが。 「お酒は私が片付けましたにゃ。アルコールには筋肉の異化作用がありますから、トレーニーにはオススメしませんにゃ。清涼飲料水には大量の糖分が入っております。血糖値が急激に上がってしまって、疲労の原因になります。スナック菓子は大量の糖質と脂質でできております。余分な脂肪を付けるだけです。タバコは心肺機能の低下を始め、各種健康被害が出ます。自分は吸わなくとも副流煙を吸えば同じことです。ご安心くださいにゃ。この部屋にあったタバコと灰皿は私が責任を持って処分いたしましたにゃ。もう二度とこの部屋でタバコは吸わせません」  どういうこと?  昨日は僕の他に三人のアルコール中毒ジャンクフードマニアヘビースモーカーの地下生活者がいたはずだが。 「お三人様には、今朝早くお引き取りいただきました。なお、お三人様とも、もう二度とこんなところには来ないそうですにゃ」  おい。僕の友達に一体何をした。  ガバッと跳ね起きると、猫の方もようやくスクワットが終わったみたいだった。 「フーッ。スクワット500回。いい汗かきましたにゃ」 「ちょ、ちょっと待ってくれ。ここは僕の家だぞ。なんだって勝手に入ってきて、友達を追い出して勝手なルールを作ってるんだ!?君が何と言おうと、僕はタバコを吸うぞ。それに、ここでスクワットをすることは禁止する!」  強めの調子で言うと、猫はみるみるうちに悲しそうな顔になった。  それは今まで僕が見た中で、一番悲しそうな顔だった。  まるでシェイクスピアとアイスキュロスの一番悲しい悲劇を同時に見ながら、大事に飼っていたインコを猫に食べられたときのような悲しそうな顔だった。 「あ、いや、待て待て。スクワットはしてもいいけど」  猫は、今度はみるみるうちにハッピーな顔になった。  まるで誕生日のランチをハッピーセットにしてもらったアメリカの子供のようなハッピーな顔だった。  猫はキッチンに行くと、白っぽい不透明な液体の入ったグラスを持ってきた。 「ささ、お飲みくださいませ。起き抜けは筋肉が一番栄養を欲しております」  そうやって渡されてもなぁ。  見ず知らずの人から、いや、猫から、謎のドリンクを飲めと言われても。 「ご安心ください。プロテインは科学的な薬品ではなく、純粋な食品です。副作用などはございません。そりゃあ、一日に5杯も6杯も飲めば別ですが、飲み過ぎ食べ過ぎがいけないのは全ての食品共通です。適度な摂取は健康増進に役立ちます」  そういう理由で躊躇したわけではないんだが。  まあ、喉も渇いているし。うん。バニラの味がして、シェイクみたいで意外とイケるな。 「君も飲んだのかい?」 「ええ。私はいつも起き抜けにプロテインを飲むと決めております。そのあと有酸素運動をして、腕立て500回、腹筋500回、スクワット500回やっております」  ほう、すごいな。この猫、あんまり怒らせない方がいいかも。 「さあ、朝食にいたしますにゃ。トレーニング後30分以内がゴールデンタイムですにゃ」  いや、僕は別にトレーニングしていないんだが。  猫はパソコンデスクの上に、オートミールとギリシャヨーグルトの朝食を二人分置いた。僕の方にはバナナも。  オートミールなんて、買ってたっけ? 「オートミールは低GI食品で、糖質の吸収が穏やかなんですにゃ」  あ、そう? 「私は今、減量期ですので、バナナはいただきません。本間さんはバルクアップ期ですので、バナナもお食べください。筋肉を付けるには同時に脂肪も付ける必要がありますにゃ」  何期?  いつの間に僕はそんな期に入ったんだ?  あれ?それより、まさかとは思うけど。 「あ、冷蔵庫ですけど、大きいものに変えときましたにゃ。前の冷蔵庫は冷凍室が狭かったんですにゃ。新しいのは、鶏肉が10キロは余裕で入りますにゃ」  やっぱりこいつ、僕の考えが読めるようだ。それとも、知らないうちにサトラレになっていたのか。  冷凍庫を開けると、鶏の胸肉がぎっしり詰まっていた。  朝食を食べ終わると、猫は僕を外に連れ出した。  昨日何時まで麻雀をやっていたのかわからないけど、いつもこういう日は大抵昼過ぎまで寝ているんだが。  どこへ行くのかと思ったら、駅前のスポーツジムだった。  猫は勝手に僕の入会手続きをしてしまった。  本人が署名していないけど、いいのか?  それとも、知らないうちに日本の法律が変わって、大学生の保護者は猫ということになったのだろうか?  やはり新聞くらいは読んでおくべきであった。 「さあ、これに着替えてくださいにゃ」  用意がいい。猫のスポーツバッグには、僕の分の着替えが入っていた。  猫みたいな裸の大将のランニングだったらどうしようかと思ったが、有名スポーツブランドのロゴが付いたTシャツだった。 「あ、本間君、おはよう」 「や、やあ、安納(あのう)さん」  美しい女性がエアロバイクにまたがっているなと思ったら、そこにいたのは、サークルのマドンナ、安納カオリさんだった。  露出度の高いブルーのトレーニングウェアを颯爽と着こなして、いつにも増してお美しい。  思わず見とれてしまう。  と、安納さんが不思議なものでも見るような顔をした。  いかん、いかん。秘めた恋心が露見してしまう。 「あら?そちらの方は、どなた?」  ほっ、良かった。そっちだったか。  いや、これはこれでやばいぞ。こんな猫と一緒にいるところを見られたらイメージダウンだ。 「あ、そっか。本間君、すごいなぁ」  え、何が? 「パーソナルトレーナー付けてるんでしょ。偉いなあ。私もそういうの付けてやらなきゃって思ってるんだけどね」  そう言って、安納さんは片目をつぶってペロっと舌を出した。  普通の女子がやったら、お前はアニメのキャラクターか!と、ツッコミを入れたくなるところだが、美女がやると様になるから不思議だ。 「ささ、本間さん、始めますよ。今日は胸の日ですにゃ」  と、猫がやってきた。 「本間君が頑張るなら、私ももうちょっとやっていこうかな。夏休みの間にシェイプしとかないとね。負けないわよ」  安納さん、この状況を不思議に思わないのだろうか。  それはともかく、まさか安納さんに会えるとは思わなかった。  聞けば、よくここのジムに来るのだとか。  ということは、ここに通えば安納さんに会えるってこと?  もしかしてもしかして、この夏は特別な夏になりそうな予感。  その喜びも束の間、30分後には、僕は特別な痛みに襲われていた。 「あ〜、痛てててて」  猫にみっちりと大胸筋を痛めつけられたのであった。 「バーベルを使ったベンチプレスは、負荷が対象筋(たいしょうきん)にキチッとかからない恐れがありますにゃ。運動神経のいい人なら、全身の連動を使って上げれてしまいます。ベンチプレスはダンベルを使うのが正解です。いわゆるウェイトトレーニングのビッグスリーと言われる、ベンチプレス、スクワット、デッドリフトは、怪我をする危険性が高いですから、今やトップビルダーほどやっておりません。怪我の可能性を極力減らして、正しいフォームを身につけてもらいますにゃ」  き、きつい。正しくないフォームでも、僕は満足だ! 「明日は足のトレーニングをしますにゃ。明後日は背中、明々後日は二頭筋と三頭筋をやります。これが猫式スプリット法ですにゃ」  頼んでない、頼んでない、頼んでないぞおおおおおおおーーーーー!!!!  そんな心の叫びは、プロテインシェイクの泡と消えていった。  部屋に戻って、昼食の準備である。  猫は手際良く、ささっと調理した。 「お昼は特製ちゃんこですにゃ。きのこたっぷり、食物繊維たっぷりの豚チリですにゃ。脂身は取ってありますから、安心してお召し上がりください。鶏胸肉のソテーも用意してあります。私は減量期ですので白米は食べませんが、本間さんはバルクアップ期ですので、白米もお食べください」  また出たな、バルクアップ期。だからいつの間に僕はそんな期に入ったのだろう。  それより、物欲しそうに白米を見るな。食べたいんだったら食べればいいのに。 「この鶏胸肉は、酢を使って柔らかくしてあります。カプサイシンなど、数種の成分がダイエットに効果があると言われておりますが、いずれも迷信の域を出ません。いわゆる痩せるサプリなんてものは、全て眉唾物だと思って間違いありませんにゃ。しかし酢だけは、アメリカ保健福祉省の調査で、ほんのわずかであるが脂肪を分解する効果があると認められております。お酒を使った方がお肉が柔らかくなるのですが、アルコールには筋肉の異化作用がありますにゃ」  うん。知ってる。それより米食べたら?  昼食の後は、昼寝をしろと言われるかと思ったが、僕たちは意外なことをして過ごした。  久しぶりだなあ。小学生以来だよ。 「そもそも私が本間さんを選びましたのは、この家にはドンジャラがあるからなんですにゃ。私、こう見えてドンジャラには目がないんですにゃ。最近はドンジャラをやる家庭が少なくなっていて、寂しい限りですにゃ」  鼻息、荒い、荒い。  ドンジャラにマタタビ成分でも入っているのだろうか?  それにしても、ドンジャラなんていつの間に実家から持ってきてたんだろう?  ここに引っ越してきてから、見たことがなかったんだけど。 「そういや、雀卓、どした?」 「私、以前に横浜のお宅に飼われていまして。そこのご主人が、それはそれはドンジャラがお好きでして。こうやってよく差し向かいでドンジャラをしたものでございます。ああ、懐かしいですにゃあ」  おい。さりげなく無視しただろ。 「ふうん。で、雀卓は?」 「おお、本間さんの打ち方はご主人の打ち方にそっくりでございます!ということは、本間さんも柳生流でございますか?」  いや、オレ流だよ。強いて言えば。  ドンジャラに流派なんてあったのか。それより肝心なところを無視するな。 「で、横浜のドンジャラ好きの紳士に飼われていた猫が、どうして今僕の家にいるんだろう?」  すると、猫はみるみるうちに悲しい顔になった。  彼女との初デートにバーガーキングに行ったはいいけど、おじいちゃんに買ってもらった星条旗のシャツにオーロラソースを飛ばしてしまったアメリカの男の子みたいな悲しい顔になった。  そういう日はとことんツイていないもので、もちろんファーストキッスはお預けになったし、家に帰ってみると金魚が猫に食べられていたりするものなのだ。  そして数日後、マクドナルドでライバルの男の子が彼女とデートしているのを目撃することになる。  いや、冗談はさておき、聞いてはいけないことだったか。  猫はたった今捨てたばかりの、ドラえもんの牌をじっと見つめて、プルプルと肩を震わせていた。  捨てられた。  猫型ロボット。  猫型。猫。捨てられた。  次は僕の番だった。山から取ったのはドラミちゃんだったが、いらなかったので捨てた。 「ドンジャラ!」 「へ?」  僕が捨てたドラミちゃんによって、猫が上がっていた。 「ドンジャラです!私の勝ちですにゃ!」  ド、ドラミちゃんとしずかちゃんで揃えるとは!このエロ猫め。 「い、いや、待て。君はリーチと言っていないぞ。先にリーチと言わないと無効なんだからな」 「あ」  その後は、ドンジャラのルールを思い出した僕の連戦連勝だった。  猫はその度に、「もう一回!あと一回だけ!」と言って、必死の形相でせがんできた。  いや、こいつドンジャラ覚えたてかよ。  麻雀を覚えたての人には、この「もう一回」現象が起こるものだけど、ドンジャラにもあるのか?  しかし時計の針が6時を差したとき、突然終わりが訪れた。  そのとき僕らは48回目のドンジャラの最中で、僕はリーチをかけていた。 「夕食の時間でございますにゃ!」  唐突に叫んで、猫は立ち上がった。  そうか。優先順位は筋肉の方が上か。 「全卵2個、白身8個の納豆入りオムレツですにゃ。本間さんはバルクアップ期ですので・・・」  皆まで言うな。ちゃんと白米も食べる。そもそも君が来る前からいつも食べている。  それから、物欲しそうな目で白米を見るな。  ついでに筋肉のために黄身を無駄にするのは良心が咎めるのだが、おそらく何を言っても無駄なのであろう。 「さあ、食事の後は睡眠でございますにゃ。筋肉のためには、睡眠が欠かせませんですにゃ。一日最低10時間は寝てください。これを睡眠トレーニング、略して眠トレと言いますにゃ」  いかにも脳みそが筋肉質の奴がいいそうな言葉だ。  しかし、夜7時に寝るなんて、何年振りだろう?とりあえず記憶にない。  案の定、あんまり早く寝たせいで、夜中に目が覚めてしまった。  なぜかキッチンの方からいい匂いがする。 「何してるの」  今は夜中の3時である。  猫が一人焼肉をしていた。 「寝ている間にもカロリーを消費しますから、途中で起きて栄養補給をしているんですにゃ。トップビルダーのローリー・ニャンクラーさんも取り入れている食事法ですにゃ。こうしないと筋肉量が落ちてしまうんですにゃ。あ、本間さんはまだ筋肉量が少ないですので、先程の食事で十分足りております」  あ、そう?ワンルームでこの匂いを避ける術はないのだが。  寝ろと?  今すぐトップブリーダーの元へこいつを送り込みたい。ぺ◯ィグリーでも食べてろ。  その後も毎日、僕は猫のおかげで朝早くに起こされ、ジムに行かされ、夜早く寝かせられた。  高タンパク、低脂肪、中炭水化物の食事を摂らされ、飽きるほどドンジャラをやった。  僕の夏休みはこうやって過ぎていくのだろうか?プロテインシェイクの泡とともに。  猫は筋肉最優先のドンジャラジャンキーであることを除いては(その二つを除くと何が残るだろう?)、なかなかいい奴だということがわかった。  しかし、話が横浜時代のことになると、貝が殻を閉じたように、むっつりと黙ってしまう。  まあ、良い。  人に言いたくない過去を詮索するほど、僕は子供ではない。  生きてれば誰だって一つや二つ、そういうことがある。  お互いに心に傷を負っていることを認めながらも、その傷に触れずに付き合えるのが、大人ってものさ。  こういうときには、いつものハイボールを濃い目にして、マイルス・デイビスのトランペットに耳をすますのさ。  と、行きたいところだが、グラスの中にはチョコレート味のプロテインが入っている。  そしてドンジャラだ。  ドンジャラには、筋肉に有効な成分でも入っているのだろうか?  猫は何度やっても、「もう一回、あと一回だけ」とせがんでくる。  もし断ろうものなら、まるで出産したばかりの卵を猫に食べられてしまったウミガメのように悲しそうな顔をするものだから、仕方なく付き合ってあげた。  どうせ6時には白身たっぷりのオムレツを食わされるのだ。  唯一、嬉しいのは、ジムに行く度に、我が愛しの君である、安納(あのう)カオリさんに会えることだ。  夏休みが明けるまで会えないかと思っていたから、これはラッキーだった。  安納さん、いつ見てもお美しい。  いつ見ても露出度が高い。  そしていつ見てもエアロバイクを漕いでいる。 「私、もうちょっと二の腕をシェイプしたいのよね」  なんて言いながら、ずっとエアロバイクを漕いでいる。  一方で僕は、ここのところ大変に筋肉にいい生活を送っているものだから、見違えるほど体つきが変わった。  余分な脂肪が取れ、肩が盛り上がり、胸板が厚くなった。  お腹が引っ込み、お尻が丸くなった。  徹夜で麻雀もやっていないし、タバコも酒もスナック菓子もやめた。  本意ではないけれど。 「ねえ、本間君」 「にゃ、にゃんでしょう?」  今のは僕だ。安納さんの前で緊張しているだけだ。 「今度、二人で海に行かない?」 「う、海!と、というと、み、水着でございましょうか!?」  いかん。キャラが変わっている。安納さんの前では、今までクールな本間君を演じてきたというのに。 「うん。水着だよ。本間君はいいなあ。だってローリー・ニャンクラーみたいだもんね。私はもうちょっと背中に筋肉付けたいなぁ」  安納さん。どうしてその名前を知っているのですか。  検索してみたけど、ゴリゴリのマッチョです。僕とは似ても似つかないのですが! 「ね、いいでしょ?海、行こうよ、一緒に」  そう言って、やはり安納さんは片目を閉じてペロっと舌を出した。  かわいい。もう気の済むまでエアロバイクに乗っていてください。  僕が海までお運びいたします。 「と、いうわけで、明日は安納さんと海へ行ってくる。トレーニングもドンジャラも休みである」  僕は一方的に宣言した。  トマス・ジェファーソンがアメリカ独立を宣言したよりも、気高く、強く、たくましく。 「そ、そうでごにゃいますか。あ、明日は、トレーニングはお休みにゃのですか」  猫は明らかにうろたえた。 「ド、ドンニャラも、お、お休みにゃのですにゃ?」  言葉使いがおかしくなっている。ドンジャラって言えてたじゃないか。  これは相当うろたえている。  どうせこの後に、ジョン・レノンの復活に失敗した魔術師のような悲しい顔をするのだろうが、ここは心を鬼にしなくてはいけない。  乗り越えよ。猫よ。悲しみを乗り越えよ。  猫は悲しみを乗り越えて強くなるのだ。  当日、僕が家を出るとき、猫はまだ寝ていた。  いつもだったらプロテインを持った猫に起こされるのだが、すっかり早起きの習慣が身についた僕は、猫の手も借りずに目を覚ました。  海は楽しかった。  とても楽しかった。  本来ならば、何があったか詳しく報告したいところだが、健全な青少年も読んでいるものであるため、詳細は省く。 「ただいま」  誰も「お帰り」と返すものはいなかった。  猫は姿を消してしまっていた。  どんなに待っても、戻って来なかった。  ジムを探しても、どこにもいなかった。  あれは夢だったのだろうか?  僕はお酒を飲み過ぎていたのだろうか?  だけど、僕の体は少しばかりローリー・ニャンクラーに近づいていたし、冷凍庫にはまだ大量の鶏肉が凍っていた。  そしてドンジャラ。  持ってきた覚えのない、ドラえもんのドンジャラが、なぜか家にある。  その後、僕の家には、また友達が来るようになった。でも、どこを探しても雀卓が見つからないとなると、みんな帰っていった。  誰もドンジャラをやろうとはしなかった。  誰も遊ばないドンジャラ。  猫型ロボットのドンジャラ。  僕はいつまでも、ドンジャラを捨てることができなかった。
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