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礼司が決心を覆してこのホールにやって来たのはたった数か月後のことだった。
ほとんどライブを行わないことで有名な楽団のコンサート。背に腹は代えられない。生を聴くにはここに来るしかなかった。このホール、なぜだかそういう質の高いライブが多いのだ。
美しいハーモニーの中にも独創的なリズムとプロジェクションマップを取り入れた斬新な演出……そのクライマックスに。
映像をよく見ようと客たちがこぞって前のめりになる。そのせいで後部座席からは舞台が見えにくくなり、次々と同様に乗り出す――ドミノ倒しのごとく。やがてウエーブが起こったかのように前から後ろへと立ち上がっていく客たち――。
これぞ生の醍醐味。礼司は酔った。
「ハンナリカチョーを呼んでください」
どこからか響いてきた囁き声に、礼司は弾かれたようにピンと背を正した。興奮が一気に冷えた。
ハンナリカチョー……よもや、まさか、……果たして。
飛んできたのはやっぱりあの痩せた背の低い優男。
「またあいつじゃんか」
名札。名札を見てやる。
『つよし』
……斬新なのか何なのか。ファーストネームの名札とは、ここは本当に日本か?
とツッコむ前に、立ち上がった人々が漏れなく連行されてゆく。それを見た周りが慌てて座っていく。礼司も慌てて素知らぬ顔で座る。
が、おかげであちこち空席が出た。少しでも前へと、後部の人々が次々席を移動し、礼司も同様……が、おっとまたも醍醐味、キターーー!
徹子の5倍はある盛り髪の女子の真後ろになってしまった。うん、指揮者もコンマスも誰一人見えない。生鑑賞はこういうとこが臨場感なわけで。
「ホロリカチョーを呼んでください」
……。礼司はすぐ側で聴こえた囁きの方に目を向けた。案の定、『つよし』がやってきて、通報した案内係と2人で盛り髪を連れてった。
何だかなあ。礼司は気の抜けたサイダーな気分でコンサートの続きを鑑賞。どうも盛り上がった気分に水を差された感が拭えない。
もやもやをぶつけるべく礼司は前の席を蹴った。そして演奏の一瞬の合間に声を挙げた。
「いよっ大根屋! よーよー、小さくて音聴こえないぞ。腹から息出してんの!」
ええこれぞ生鑑賞の大原則。大向こうに、野次。これこそ通の楽しみってもんで。
「ゴンゴカチョーを呼んでください」
すぐ横で囁きインカム。そして10秒後、礼司はあいつにマジックハンドで口をつままれながら、ホールから連れ出されたのだった。
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