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 ……ま、ただの噂だろうけど。  藤牧楓(ふじまきかえで)は誰もいない美術室でコンクール用の作品に着色しながら一笑に付した。  開いた窓から気持ちのいい風が吹き抜けて、絵の具の匂いを奪い去っていく。南棟四階にあるこの部屋はいつも明るい光でお日様色に染まり、空も大きく見えた。種類のわからない鳥が群れで飛び去っていく。  楓は土曜日の美術室が嫌いじゃなかった。  誰もいない一人きりの空間。そこに混じる土の香り。遠くから聞こえる野球部の掛け声とブラスバンド部の練習音。均整の取れた騒がしさに彼女は心地よく集中できた。  だからかもしれない、と楓は思う。何かに集中しているとき、自分でも予期せぬ記憶が蘇ることがたまにあった。  今回は一昨日の昼休憩にクラスメイトが話していた、おまじないの話だ。  ただどうやらそれはかなり昔の話らしく、現在その掲示板サイトは閉鎖されており見つからないらしい。クラスメイトがその場で検索していたので間違いないだろう。  昔は主に雑談やトピック、クラスの恋愛事情なんかで使われていたらしいが、最近は他にも様々なSNSが普及している。そちらのほうが使いやすく、より隠れやすいのかもしれない。 「おまじない、ねえ」  楓は何の気なしに呟く。  しかしその呟きは彼女の耳から入りこみ、脳内に一人の影を浮かび上がらせた。彼女は不意に現れたその影を振り払うように強く(まばた)きをする。  楓はあまりその類の話を信じないようにしていた。  もちろん小学生の頃まではそうではなかった。学校には七不思議というものがあって、理屈じゃ証明できないような現象が溢れているのだと心躍らせたりもした。  けれど今はもう高校二年生。サンタクロースはいないことも、コウノトリが赤ちゃんを運んでこないことも知っている。  理屈で証明できないわけじゃない。小学生の彼女は、理屈ですべてを証明できると思い込んでいた。  人は嘘をつかないと信じ込んでいたのだ。 「……集中しよ」  ひとつ息を吐いて、楓は筆を変える。面相筆を筆洗器に浸して平筆を手に取った。  窓から見える空よりも濃い青色を筆先で掬ってキャンバスに運ぶ。開いた窓から演劇部が発声練習をしている声が聞こえた。陸上部のピストルの音が響く。サッカー部がゴールを決めたのか、一際大きな歓声が上がる。  けれど楓の集中は乱れなかった。窓の外は別世界とでも言うように、彼女の筆先は淀みなく滑っていく。  筆とキャンバスの摩擦、椅子の軋む音、広がっていく色彩。するりするり、と重なる青がキャンバスを満たしていく。  それだけが今の彼女の世界だった。
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