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*** 「――ふう」  楓は筆を離して、忘れていた呼吸を再開する。いつの間にか演劇部の発声練習もブラスバンド部の演奏も聞こえなくなっていた。  柱に設置された時計を見れば午後四時。  清澄高校では休日の部活動は午後三時半までと決まっている。今はそれぞれ帰路についている頃合いだろうか。  楓は平筆を筆洗器に入れる。  作品はひとまず完成の目途が立った。わざわざ土曜日に来なくてもコンクールには間に合うだろう。彼女は土曜日の美術室が嫌いじゃなかったが、家でソファに寝転びながら大食い動画を見る土曜日のほうが好きだった。  筆洗器を美術室脇の水場に運ぶ。そしてステンレスの蛇口を捻り、落ちてくる水で筆を洗った。指先にぶつかる冷たさが心地いい。  濁った水が排水口に吸い込まれていくのを見て、彼女は今日の終わりを感じた。 「よし、完了っと」  筆と筆洗器を洗い終えると、それらを棚の上に敷かれた雑巾の上に置く。最後に彼女は自分の両手を石鹸で洗ってハンカチで拭いた。  水場の片付けを終えた彼女は、次はキャンバスだと先程まで自分が座っていた場所を振り返る。 「うわあ、綺麗……」  楓は思わず言葉を漏らした。  日が傾いてきたのか、白を増した淡い光が美術室を包み込んでいた。壁も、床も、木製の机や椅子も、乱雑に並べられたイーゼルも、何も書かれていない黒板も、厳格な顔つきの石膏像も、すべてがシルクのような柔らかな白に覆われている。  まるでひとつの作品のような美しい世界に、楓は思わずスマホを向けた。  ピコン、と軽い音がして、彼女の視界が液晶画面に切り取られる。写真の中でもその美しさは健在だが、やはり肉眼には劣ってしまう。  ……誰かに見せたいな。  楓はあまりの美しい光景を前にして、そんなことを思った。そしてその思いに呼応するように、先程振り払ったはずの人影が脳内に蘇る。  この秘密にしたいくらい美しい光景を、もし誰かに見せるなら。   「橋本(はしもと)くん、かな」  彼女の頭の中でピストルが鳴った。  
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