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「店長を呼べ店長を! 俺が話つけたるわ!」
夜の帳が降りた頃。
静かな街に佇む静かなコンビニの店内に、酷く耳障りでしゃがれた怒号がこだまする。
「申し訳ありません。今、店長は不在でして……」
「チッ。ならさっさと出せ! メビウス・ワンの一ミリやって何回言ったらわかるんや!」
「申し訳ありません……」
レジの向こう側にいる年配の男性客に俺は適当に頭を下げつつ、レジ内の壁際に置かれた無数のタバコの山の中から、なんとか目当ての銘柄を手に取る。
そしてそれをレジに置く。
「そうやこれや。出すのが遅いんじゃボケ!」
向こう側にいる年配の男性客が、俺に向けてツバを飛ばす勢いで捲し立てながら『メビウス・ワン(一ミリ)』の代金540円を投げつけてきた。頼むから銘柄じゃなくて番号で言ってくれ。まじでどれかわからん。
「お客は神様やろ⁉︎ ならちゃんとやれや!」
「す、すみません……」
「チッ。二度と来るかこんな店!」
捨て台詞のように吐き捨て、俺がカウンターに置いたメビウスの箱をひったくるようにして手に取り、怒号の主は闇夜へと消えていった。
「二度とくんなカス……」
俺だけしかいなくなった店内は嵐が過ぎ去った後のような静けさに満たされ、そこにしがない店員の悪態が虚しく溶けていく。まじであいつゴミ袋みてぇな服着てる汚ねぇジジイの分際で調子乗んな俺はお前の奴隷じゃねーんんだよクソがさっさと○ねゴミカス……。
「はぁぁぁ……」
鉛よりも遥に重い溜め息を吐いて、足元に転がった小銭を重い手つきで拾い上げる。
本当、店員に対して態度が大きい客はみんな○ねばいいと思う。
「ん?」
と、そこへ、一人の女性が現れる。
「やぁやぁ陽向くん! お疲れ様だね〜♪」
陰っていた俺の心に眩い日光が差し込むようにして、余裕に満ちた女性の声が店内に響き渡る。
「いや、ここは御愁傷様と言うべきかな?」
「……来てたんなら助けてくださいよ、聖夜誓先輩。あいつ毎回毎回僕を狙って来てるらしくて困ってるんですから」
恨みを込めて言い返しながら俺は小銭を拾い終え、それをレジの中に戻す。同時に、レジのタッチパネルに表示された時刻が俺の勤務終了時間、そして聖夜誓先輩の勤務開始時間を示していることを確認した。
「まぁ、確かに見て見ぬ振りはしたが、それを私に言うのは酷ってもんじゃないか?」
「まぁ、先輩がクレーマーに酷いことされたのは知ってますけど……」
そう言いつつ、俺はちょっと視線を上げて聖夜誓先輩の右目を覆う漆黒の眼帯を見る。
「でも、勤め始めて一ヶ月も経ってない新人、しかもタバコなんて無縁の十九歳の子供に悪質クレーマーの対応をさせるのは酷ってもんじゃないですか?」
「でも、突然逆上した客に品物を投げつけられて右の視界を失ったあの日から、私は金輪際あの害獣どもとは関わらないようにしようと決めたんだ」
残された左目をにっこりと微笑ませつつ、聖夜誓先輩はキッチリとしたジーパンに包まれた長い脚を肩幅に開き、無くはない胸を逸らしながら堂々としている。
「……」
なんでそんな過去があるのに、未だコンビニ店員なんか続けているのか。
なんで失明を患ったのに、そんな飄々としていられるのか。
なんで仕事もできて性格も良くて、眼帯すら似合う整った顔と男性すらも嫉妬するほどの高い身長を備えているのにこんなとこにいるのか。
「ん? そんな見つめてどうした?」
俺の先輩は、なんというか……掴みどころがないというか、正体不明というか、よくわからないけどカッコいい人だ。
「もしかして、私に惚れて」
「ないです。僕は年下が好きなので」
と思ったら長く艶やかな黒髪を垂らしてしょぼんとなったりと、本当によくわからない。
「まぁ、ああいう人を見る目のないクレーマーなんて、平謝りして適当に流すしかないさ」
先輩と二人っきりの店内に、凛々しくも虚しい女性の声が霧散する。
「んー……」
「どうやら納得していないようだね。まぁ、ちなみにアメリカだと『お客様は王様』と言われているらしいよ」
「へぇ、そうなんですね。って、神様と王様ってどっちも偉いし一緒じゃないですか?」
俺のその浅慮な疑問に対して、先輩はいつものように冷静沈着な調子で答えてくれた。
「王様は人間だ。人間が相手ならば法のもとに裁くこともできるし、革命を起こして引き摺り下ろすこともできる」
「あー、確かに」
「だがここは日本だ。日本だと『お客様は神様』だ。神が相手である以上、私たち人間はおとなしく従うしかないのだよ」
「……」
「利口な君のことだ。わかるだろう?」
燃えたぎる灼熱の業火を鎮火するようにして、その人は優しく諭すように言葉をかける。
これ以上、俺が社会的に間違った正論を言ったところで、聖夜誓先輩が社会的に正しい曲論を言い聞かせるだけなのは、これまで一緒に過ごしてきたから理解していた。
「間違っても奴らに刃向かってはいけないよ、陽向くん」
「うーん……」
すると、二人だけだった店内に、招かれざる客が姿を現す。
「おいどうなっとるんやコレ!」
聞き覚えのあるしゃがれた怒号が響き渡ったその瞬間、全身が凄まじい悪寒に襲われ、心臓から足先までの全ての血という血が温度を失っていく。
一縷の望みを懸けて隣に視線を送るも、背中を向けた聖夜誓先輩は長く垂れ下がった黒髪を揺らしつつ、しら〜っと隣のレジへと離れていってしまった。
まぁ、片目を失った人に助けてもらうのも酷だろうと思い、仕方なくそいつの対応を始める。
「いかがなさ……」
「これ中身一本少ないやろが!」
理性のない怒号を撒き散らしつつ、そいつはさっきここで買ったメビウスの箱をレジのカウンターに叩きつけた。
「え、えとー……」
「こんなん詐欺や詐欺! さっさと代わりのもん出せや!」
そう言われて置かれた箱に視線を落とすも、もう既に開封済みだし、レシートは出してくれないし、こんなことがまかり通るわけがない。しかもなんかこいつさっきまでしなかったのにタバコ臭えし、絶対その一本吸ってきただろ。
「そうやな……おんなじやつカートンで。いや……。あるだけ全部タダで寄越せ!」
あまりに酷い過剰要求に呆れ、思わず失笑が溢れそうになる。んなことできるわけねーだろバーカ。帰れヤニカスくたばれゴミカス二度とその面見せんなザコ。
「いや、それは……」
「お前の話なんて聞いとらんのや! さっさと出せ! できんなら店長呼べや!」
「えー……」
もうだめだ。こんな害獣に人間の言葉が通じるわけがない。
半ば諦めた調子でそんなことを考えていると、そいつは触れてはならない禁忌を犯した。
文句の度を超えた、人としての尊厳を踏み躙るような禁忌を。
「はよ出せ! 出さんなら死ねやボケ!」
すると、途端に店の中が冷え込んだような気がした。
すぐ傍から漂う柑橘系の香りに気付いてその方を見ると、そこには右目に漆黒の眼帯を装備した聖夜誓先輩の凛々しい横顔があった。
「代わって」
気のせいだろうか。
その声には、凍てつくように静かな怒気が含まれているように感じて、俺は言われるがままにして引き退がった。
「あ? なんやお前?」
突然目の前に漆黒の眼帯を着けた長身の美女が現れ、困惑したその獣は知性のない表情でそう言った。
しかし構うことなく聖夜誓先輩は酷く冷たい口調で語り始める。
「失礼ですがお客様、この商品をご購入いただいた際のレシートはお持ちですか?」
「はぁ⁉︎ んなもん捨てたわ! 持ってないし見たらわかるやろそんなもん!」
先輩の態度とは似ても似つかない調子で、害獣は本能のままに騒音を辺りに撒き散らす。
「ま、片方しか見えんようなやつに言ってもわからんか」
一転してそいつは嫌味ったらしい粘着質な声音で、わざとこっちの感情を逆撫でするようにして吐き捨てた。
俺は溢れんばかりの憤慨に襲われるが、それでも先輩は棘のある声音で対応する。
「でしたら、申し訳ありませんが商品のお取り替えは承りかねます」
「はぁっ⁉︎ お客様は神様やろ⁉︎ おとなしく俺の言うこと聞けや!」
気づけば店内にはちらほらと他の客も姿を現し、害獣の後ろにも数人の客が並んでいた。一刻も早く駆除しなければ更なるクレームに繋がりかねない。
「なんとか言うか死ぬかどっちかしろやボケ!」
それでも奴は自らの欲望のままに身勝手な要求を突きつけるばかり。
やはり、神様が相手である以上、おとなしく従うしかないのか……。
「はぁ……」
すると聖夜誓先輩は、何か吹っ切れたようなため息を溢すと同時に、汚物を見下すようにして残された左眼から冷酷な視線を放つ。
「お客様は神様、ですか……」
「そうや。さっきからそう言っとるやろが」
「でしたら、他の神様のご迷惑になりますので、速やかにお引き取りください」
「は?」
突如告げられたその言葉に、目の前の害獣は唖然として口を開くばかり。
「な、なんで俺が帰らな……」
「ここは人間のお客様と正当な取引をする場所です。神を祀る神社ではありません」
害獣は反撃を試みるも、先輩の圧倒的な空気感にねじ伏せられてしまった。
そして聖夜誓先輩は、漆黒の眼帯を纏ったその顔に確固たる敵意を滲ませ、容赦のない追い討ちをかける。
「それと、当店の大事なスタッフを……。私の大切な後輩を虐げるような疫病神様には、当店のお買い物をご遠慮頂いております。お引き取りください」
こうなった先輩に敵う者など、人も獣も神も、この世界には存在しない。
「か、買うか買わんかは俺の自……」
「お引き取りください」
「最後まで聞……」
「お引き取りください」
するとその害獣は、最後の切り札と言わんばかりに堂々と、そして高々と宣言をする。
「ほ、ほんなら……本部に言って、お前らまとめて辞めさせたるからな!」
それをされてしまっては、バイト程度の人間に反撃の手段はない。
それでも先輩は一歩も怯むことなく、害獣が放った凶悪な一手に対して禁断の文言を放った。
「失せろ。私の後輩には手出しするな」
畏まった様子の欠片もないその言葉は、見知った俺ですら竦み上がってしまうほどの鋭利な敵意に満ちており、目の前の害獣から反抗の意思を奪い去った。
「あ……。こ、こ、ここ、こんな店、二度とくるかボケ!」
牙を抜かれた獣は情けなく惨めに吐き捨てて、おぼつかない足取りで闇夜へと消えていく。
すると同時に、店の中のあちこちから疎らに拍手が巻き起こり、やがてそれは一つの大きな賞賛となって先輩の元に降り注いだ。
「おお〜……」
フィクションかと見間違いそうになるそんな光景に、俺は聖夜誓先輩にお礼を言うのも忘れて、ただただ感嘆の声を溢すばかり。
そんな中、どこか遠くを見るようにして、諦めに満ちた声が聞こえてきた。
「奴が連絡いれて……。本部からお咎めが来て……。これで私も、とうとうクビかな」
「え?」
すると先輩は、眼帯すらもよく似合う美麗なその顔に哀しげな笑みを浮かべて俺の方を見た。
「私のような目に遭いたくなければ、大切なお客様には刃向かってはいけないよ」
今生の別れと言わんばかりに、かっこよくも悲哀に満ちた声音で、聖夜誓先輩は俺に最後の教えを授けてくれた。
「……」
おかしい……。
俺は、年下がタイプだったのに……。
先輩なんて、特に何か想っていたわけでもないのに……。
「さようなら、陽向くん」
漆黒の眼帯が似合う聖夜誓先輩の悲しげな顔を見て、なぜか俺の心は冷たく疼いた。
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