「まもりびと」

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 「絵本作家か、いい夢だ」  そう言うと先生は吸い終えた煙草を足で 揉み消した。そうして、紫紺に変わり始めた 空を見やった。  「たとえ残された人生が限られたものだと しても、定められる方向があるなら、そこに 向かって生きた方がいいんじゃないか。未来 のない『いま』にだって意味はある。いまこ の瞬間、1秒、1秒も君の人生に変わりない んだから。そうやって生きているうちに、 奇跡が起こるかも知れない。僕の患者さんで 余命三カ月と言われて、八年も生きてる人が いる。医者の言うことなんざ、信じるもんじ ゃないよ」  本末転倒なことを言って先生は、ふぁっ はっはっ、と笑う。僕はつられて頬が緩みそ うになってしまい、歯を食いしばった。  「奇跡なんて……そんなの起こらない確率 の方が圧倒的に高いです。なのに家に帰れば、 無理矢理病院に連れていかれる。僕の命のこ となのに、自由に決めることも出来ない。 だったら、ここで死んでしまった方がいい。 そうすれば、無意味に苦しむことなく人生を 終えられるから」  涙に震える声が、海風に溶けてゆく。  この決断は正しい。  そう思ってここへ来たというのに、どうし てこんなに涙が零れ落ちるのか。  ずず、と洟をすすりながら頬を拭った僕に、 先生は穏やかな声で言った。  「それでも、生きたいだろう?本当は死に たくなんかないから、君は泣いている。人間 はなぁ、極限まで追い詰められると涙が出な いものなんだ。だから泣ける君は、まだ余裕 がある。心の中に“生きたい”という気持ちが ある。その気持ちがあるうちは、逝かない方 がいい。死んでしまってから後悔したって、 もうこの世には戻れないんだ」  死んだら後悔したって、戻れない。  それはあまりに当然のことで、頭ではわか っていたはずなのに、いまさら恐ろしさに足 が竦む。その僕の想いを悟ったのか、先生は 小さく頷いた。
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