始まり

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始まり

 何故そんな気を起こしたのかと自分に訊ねても、二那川は“気まぐれ”という以上の明解な答えは出せない。    関西系列の広域指定暴力団である野脇組で、四十一歳の若さで若頭の地位に就いた二那川(にながわ)武和にとって、情事の相手などそれこそ掃いて捨てるほどいた。  骨太の逞しい長身、荒削りの彫刻を思わせる端整で力強い相貌によって、向こうからすり寄って来る女に事欠くこともなかった。結婚もせず、特定の愛人も作らず、その日限りの欲を適当な相手で紛らわせてきた。  しかし今の二那川の身体はたった一人の存在にのみ、これまで感じた事がないほどの激しい欲望を覚える。この三ヶ月間、他の人間を抱くことがあろうとも、その存在を手離さなかった、いや、手離せなかったほどに。  他の人間にすれば三ヶ月というのは手始めだと思うかも知れないが、長い縁に関心も持たない二那川にしてみれば、それだけの間離さなかったということは執着と同義になる。  ――俺は何をやってるんだ――  自分で自分を揶揄しても、一度覚えた快楽に対して男の本能は正直だ。  今も、その相手がこのマンションに現れるのを待って、血はすでにざわめき始めている。  敵対関係にある中島組が、野脇組の息が掛かった店にひと悶着を仕掛けて来たために、若頭補佐の久城が弟分たちを連れて収拾に出かけて行った。始末が済んだと先ほど連絡があったばかりで、もうすぐ事務所に戻って来るだろう。そうなれば、待ち人がこのマンションに現れるのに時間は掛からない。  野脇組若頭補佐、久城瑛人。  忠実な弟分であり、腕も立つが冷静沈着な切れ者として他組織の間でも有名な男が、二那川が待っている存在だった。 ※ ※ ※  久城は二那川より六歳歳下で、大学を中退後、ふらりと渡世人の世界に入ってきた男だった。  二那川はもともと父親が極道で、ヤクザになることにも抵抗は一切なかった。今時のヤクザは大学ぐらい出ておかないと生きて行けないという父親の弁により渋々卒業までしたものだが、久世の経歴を聞いた時、堅気で最高学府まで進んだくせにわざわざヤクザになる人間がいるとは驚きで、彼が舎弟の群れに入った時から意識の隅には引っ掛かっていた。  後に上の者から、久城の叔父だか伯父だかが極道に縁のあった人間だということを聞き、それでと二那川は推測したが、そうでないことはしばらくしてから判った。  久城は、己の性質を知り尽した者独特の、まともな社会で生きることは諦めた目をしていたのだ。暴力を好むというのではなく、危険な道を歩くことでしか生きられず、その事を悟ってしまった人間の瞳だった。  ――この男は信用できる。  そう思った二那川は、兄貴分として久城を可愛がり、重要な仕事は何でも任せた。久城もそれに応え、促さずとも黙って付いて来ることが多くなって行った。  程度の低い喧嘩もせず破目も外さない久城の冷徹な存在感は、周囲から浮くこともしばしばで、一歩引いた目で見られることが多かった。しかしするべき仕事はきっちりとこなし、上の者にも礼儀正しい彼が地位と信頼を築くのに時間は掛からず、二那川が組でみるみる内に頭角を現し、着実に足場を固めている間に、彼もいつしか兄分の右腕となれるほどの地位を築いていた。  付かず離れずの長い時間を過ごして来たとはいえ、久城はあくまで弟分の一人に過ぎなかった。  女を見るような目で眺めたことなど一度たりともなかった。  それを、彼を抱こうかという意欲を起こしたのは――とある噂が二那川の耳に入って来たからだった。  久城が男を買うのを見たという、密やかで好奇心にまみれた口さがない噂。  それが二那川の所まで届いた時、意外にも嫌悪感は感じず、『そういう男だったのか』と思っただけだった。  女の存在を幾度か酒の合間に尋ねたことはあったが、どれもすぐに手を切ったというぶっきらぼうな答えが返って来るのがほとんどで、人のことは言えない二那川は、それ以上踏み込んだ話題は続けず終わった。  その手の嗜癖を持たない限り、同性という選択肢は思い付かないものだ。  彼が男も抱いていると聞いた時は虚を衝かれたような軽い驚きを覚えたものの、すぐに興味の方が頭をもたげて来た。  自分よりも若干背は低いが、久城はすっきりと締まった躯の持ち主だった。その体格に加え、昏くはあっても長い睫毛に縁取られた形の良い瞳、意志の強そうな眉、硬く整った口元と、どこから眺めても女に不自由はしない男といえた。  そういう人間が同性の肌を愛撫し、全身を汗に濡らしている情景を思い浮かべていると、いつしか二那川の方が引き返せないほどに熱くなっていた。  情事の匂いなど一切覗かせないようなあの冷静な顔が微かに歪み、相手を責め続けながら荒い息を吐いて、やがて身を震わせて達する――  当然それらは妄想に過ぎなかったが、頭の中で組んだ想像はあまりにも立体的で、扇情的だった。久城の息遣いすらすぐ傍にあるのではと思ってしまうほどに生々しかった。  我に返ってから、いつの間にか奔っているおのが身体に二那川は半ば呆れたが、残りの半分は、この熱を行き着くところまで行き着かせたいという欲望に駆られていた。    十代の子供ではない。理性で踏み止まれる部分は、もちろんあった。  けれども、二那川は止まろうとしなかった。  そしてその日の夜に、久城をマンションまで呼び付けた。
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