始まり

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 久城の肌を濡れたタオルで拭い、二那川自身は軽くシャワーを浴びた。  濃紺のバスタオルを腰に巻いて出て来ても、弟分が目を覚ます気配はない。出入りの後にこの情事で、互いにもう若いとは言えない。疲れ切っているのだろう。ぐったりと枕に頬を預けている寝顔の陰は濃く、少し窶れているようにも映る。  ワイシャツにもシーツにも朱が散っていたが、どのみち新しい品にすれば済む話。二那川は気にもせずシャツを寝室の椅子に放った。  重く投げ出されている久城の腕を取り上げ、傷口に薬を塗り、さらしを手際良く巻いて縛った。安静にしておけば綺麗に塞がるだろう。  余ったさらしや薬を片付けた二那川は、久城が眠り続ける隣に下半身を滑りこませた。情人という訳でもない自分たちの間では、ことの後でも久城を甘やかしたりはしないし、向こうも近寄ってもこない。  だが二那川は、彼が部屋を去るまで傍にはいるようにしていたし、久城もすぐ身を離したりはしない。  いつもはさらりと後ろに流している久城の髪は、今は寝乱れていた。  二那川は前髪を額からそっと掻き上げ、癖のないそれを整えてやった。  自身の勝手な欲望で弟分を引き摺り回し、付き合せているという自覚は山ほどある。こんなことで久城の心を縛りつけ、完全に支配することは出来ないことも。すべては二那川の独りよがりな自己満足に過ぎない。  弟分としての義務感ゆえに不平も口にしない久城を、矛盾しているが不憫にすら思う。  異性とのように互いに割り切ることが出来ればもっと楽なのだろう。  けれど上と下、組織を率いる長と補佐という、過去の関係が当然未来にも続くものと疑いもしていなかった中途で、突然方向性が変わったのだ。身体だけと断言できない何かが割り込んでいるのはどうしようもない。  終わりにしようと思っても、この快楽を知ってしまった以上、離せない。久城との関係はすでに日常的な習慣へと組み込まれつつある。  一度きりのはずが二度になり、三度四度と重なって。  機会を増やせば、たとえきっかけは身体が先であろうとも、相手に対して情も混じり始める。そして麻薬のように切れなくなってしまった。女なら他で代わりも利くが、久城は他の男女で代わりは利かないからだ。  ――せめて本能だけで突っ走れる単純さがあれば、ここまで悩みはすまいに。  苛立ちを抑えようと煙草を探ったとき、久城が目を開いた。あわてて身を起こし、腕の手当てを見てうなだれる。自尊心の高いこの男が恭順の意を示すのは、二那川と組長だけだった。 「申し訳ありません」 「気にするな、疲れていたんだろう……もう少し休んで行けばいい。連中はあれでかなりてこずるからな。俺が行ってやれば良かったな」  口元を緩めると、久城は堅苦しく首を振った。 「あいつらの相手は俺たちで充分です。頭にこんな怪我をさせるわけには行きません」  極道の世界では当たり前の献身。  上の者を護る為に下の者が命を張り、上の者は下の者を食べさせる為にしのぎを削る。  かつては下の者だった二那川の身体にも傷痕が大小取り混ぜていくつもあるように、久城のそれも『過程』の一種に過ぎない。  最後のひとことをこちらへの特別な――思慕、執着といった――感情に基づく発言と勘違いするほど二那川は愚かではなかった。もし二那川以外の人間が若頭であっても、久城は同様の科白を言い切ったであろうから。  後ろ手にサイドボードの引き出しから箱を手に取り、煙草を咥えた。  久城が急いでライターを出そうとしたが、遮って自ら火を点けた。  成人にならないうちにいつしか習い覚えた紫煙の味。あってもなくても良い程度にしか嗜まないが、必要なときに一時的な落ち着きを与えてはくれるし、酒と違って車の運転にも支障を来さないがゆえに、二那川はたまに吸っている。  会話の接ぎ穂も特に見付けようとせず、黙って煙を吸い続ける頬に視線を感じた。痛いほどに。 「どうした」    いつまでも無視するにはあまりに強い目線と近い距離に、二那川はさりげなく問うた。  久城の瞳が、右肩の傷痕に注がれる。二十センチはあろうかというそれは白い線となって、逞しい肩から背に掛けて這っていた。 「……この傷は、いつ」  意を決したような声が、前々から訊ねたかったのだということを、質問を受ける側に教える。 「そいつか、もう十六、七年にはなるな。お前がまだ組にいなかったころだ。滝川組の代貸一派と遣り合ったときに相手の包丁が薙いでな。若いし下っ端だったしで医者にも適当にあしらわれて、残っちまったがな」 「………」  相手の言いたいことを察した二那川は、静かに答えた。 「こんなもんでも、面白いと思うなら好きにしろ――お前がこういう趣味持ちとは知らなかったな」  女の中にも傷を性的な眼差しで見つめる者は何人かいた。その経験を基に、からかうように話題を振ったのだが、久城はにこりともせず、低い声で呟いた。 「――頭のでなければ、関心も持ちません。二那川さんのでなかったら……」  どういう意味だと問い質す前に、言葉は喉元で止まった。  続く久城の行動に、二那川は本気で煙草を取り落としそうになったからだ。  温かい息遣いが近くなったと思ったら、次の瞬間、傷痕に久城のくちびるが当てられていた。先刻自分が彼にそうしたと同様、舌先でゆっくりと舐めて行く。動作そのものは激しくも何ともないが、舌のやわらかな動きや感触から、熱情のようなものが伝わって来る気がした。風呂上りで冷え始めた肩に置かれた久城の掌が、やけに熱く感じられる。  心を整える間もなく、その唇は古傷の上をしばらくたゆたってから、掌と同時に静かに離れた。 「……申し訳ありません」  消え入るような、しかしはっきりと形にされた再度の謝罪に、二那川は煙草を灰皿で揉み消してほろ苦く笑ってみせた。 「謝るようなことをしたのか? お前は」 「―――」 「好きにしろと言ったのは俺だ」 「……はい」 「だったら、謝るな」  言いざま、久城の両頬を捕えて唇を塞いだ。  唐突な接吻に久城の上体が揺らいだが、口腔内を犯される動きにすぐさま応え、二那川の舌につよく絡んでくる。  再び火が点いた官能を止める術を、両者とも知らない。知らないままに、熱が心身に移り広がるままに、広いベッドの上で縺れ合う。  久城が漏らす吐息は、新たな情欲を雄弁に物語っていた。  ――頭のでなければ、関心も持ちません。二那川さんのでなかったら――  この言葉が脳内でようやく形を結んで理解出来た時、鍵を手に入れたのだろうか、と二那川は思った。  久城という男の真意の一端を知ることが出来るであろう鍵。  二人の関係をまったく別の視点から眺められるようになるであろう鍵を。    彼の科白がある程度直截に放たれたものだとしても、どこまでの意味を含むのかは判らない。  単なる場つなぎの会話に過ぎない可能性とて大いにある。だがそこから過去の言動を遡れば、当時は視界に引っ掛からなかった潜む意図が見えて来る。それを考え直せば、新たに映る別の形が浮かび上がるだろう。  しかし、細かく分析しなおす時間も、今は惜しかった。  どうせ、考えることは後からでも出来る。  今はただ、きっかけを手に入れた勢いに任せて、この男に溺れていたかった。  鍵をもとに突き詰めて考えれば、自分が久城を思う道と、久城がこちらを思う道は、一対一に向き合う方向性は厳密には持っていないという結論に至るのだろうか。  ――それはそれで、良いのかも知れない。  二那川はそう心の中で呟きながら、久城を抱く腕に力を籠めた。 ―Fin―
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