第三章

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 指定のファイルをクリックして中身を開いてみて、久城は心中で驚愕した。  中島組がシノギのひとつにしているキャバクラとホストクラブ、合計三店舗の裏帳簿ではないか。ざっと目を通しただけでも自分が手伝って矛盾を洗い出す余地がないほど精確で、明らかに中島組の経理担当が寸分の狂いもなく表帳簿との帳尻を合わせていることが判る代物だった。これが捜査機関に渡れば中島組はシノギに大きな痛手をこうむることだろう。  だが。  こんな出来過ぎのものを、横河たちが簡単に入手できるわけがない――久城は眉を顰めた。  たった五日だろうが内部にいれば、組織の質というものは把握できる。横河のもとにはそこまで高い能力のある人間はいない。この室内の始末ひとつ取っても窺えるとおり、残酷だが、それが事実だった。  つまり、自分に中島組のシノギ潰しを手伝わせたいという話は大嘘になる。  ――ならばなぜ野脇の証文を取ってまで呼んだ? 須之内の件にかこつけて二那川への嫌がらせをしようとしているのは確実だが。そういえば、あと十日でお前らは終わりだ、と横河は話していた……  ぐらつく額を右手で支え、久城は机に肘を突いた。  脳を濃霧が覆い隠し、その奥で神経が縺れて固まっている。頭が少しも回らない。いつものように次から次へと事象を手繰って思考を紡ぐことができない。もどかしい。 「………」  田中に聞き取られないよう、瞑目して溜息を吐くのがやっとだった。  吐きどおしの断食状態に等しいせいで、栄養不足が続いている。頼んだ通りのサイズなのに服が緩くなってしまった身体は、生命を維持するのが限界らしい。自宅のクロゼットにある、クリスマスに贈られたスーツのことが心配になった。せっかく贈って貰ったのに似合わなくなってしまうな、と。その前に、生きてここから出られるかが問題だが―― 「久城さん、大丈夫っすか。スタバのコーヒーと菓子でも買って来ましょうか、まだ開いてますし、近くにありますんで」  昔取った杵柄か、田中はこちらの不調の原因を正確に推測している。  久城は無理に顔を向け、唇の端を持ち上げた。 「いや、いい。スタバは甘すぎて苦手なんだ……インスタントを持ってきてくれないか」 「そうですか。実は俺も苦手なんですよ。味っつうより、注文の仕方がワケわかんなくて」  二十代らしい率直な答えに、久城は今度は本物の笑みを浮かべた。とはいえ力の入らない、田中から見れば引き攣れた奇妙なそれだったことだろう。 「ちょうどスティックタイプのインスタントあるんで、持ってきます。種類選んでもらえますか」 「ありがとう」  キッチンから持ちこまれた三タイプのインスタントのうち、久城はもっとも糖分のありそうな品を選んで封を切り、マグカップに湯を注いだ。  温かな湯気に息を吹きかけると、甘いバニラの香りが頬をくすぐった。  たったそれだけではあっても、こわばった精神がほぐれる気がする。  心に余裕ができれば、思考は自然とあの面影へと流れつく。たったひとりの、己の命に等しい絶対の存在へと――    二那川は酒に強い男だが、カフェチェーンのドリンクにも抵抗がなかった。  世間様の流行りものにも付いて行く必要があるからという理由で、たまに渋谷を連れてマルビルに行っていた。  要らないと前もって伝えてあったのに、渋谷が持って帰る土産の紙袋には必ずホットのカップが入っていて、事務所の机に乗せられた。 『頭が、久城さんにと』    それがたいていは季節限定の甘いフレーバーで、久城は仕事の手を止めて苦労しながら飲んだものだ。そんな舎弟の姿を、二人きりになった室内のソファで二那川はいつも見守っていた。自分が贈ったライターで火を付けた煙草を、静かに燻らせながら。 『根を詰めすぎるな』  飲み干した後で改めて礼を述べると、彼は短く答えて立ち去るのが常だった。  今になって気づくとは。責務に没頭すると飲食も忘れてしまいがちな自分のために、二那川は苦手な甘味をあえて奢ることで、ゆっくり休む時間と身体へのエネルギーの両方を与えてくれていたのだと。  気づけて良かったと思う反面、気づきたくなかったとも思う。  知ってしまえば会いたさがつのる。現在の惨めさと絶望が心身を裂く。  ――頭――    脳裏で呟き、口をつけていないカップを机の端に置いた。  深呼吸して耐えようとした。  会計ソフトに記載された無数の数字が久城を嘲笑うように一面の濁流となって押し寄せ、視界を黒色に染めた。 
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