第四章

1/3
前へ
/66ページ
次へ

第四章

 須之内次郎と久城の前を洗う件について、二那川は腹心の渋谷要(しぶや・かなめ)に一任していた。  十年前に裏社会に入った渋谷は三十二歳で、二那川の子分に当たる。当然はじまりはヒラの立場であったのが、二那川の身の回りの世話をこなしているうちに能力の高さを発揮、今では久城に並ぶ懐刀と目される男であった。 「おはようございます。お疲れ様です」  車田と会ってから四日目の朝、良好な睡眠が取れているとは言いがたい状態で野脇組本部事務所に現れた二那川を、きっちりとダークスーツを纏った渋谷の長身が出迎える。  大きな二重の瞳に細い黒縁の眼鏡、目立たず通った鼻筋に赤い唇、卵型のフェイスライン。  前髪を少し額に流し、短く切られたアッシュブラウンの髪型。  外見だけならモデルかはたまたエリート銀行員かと間違われそうな優男で、夜の街の大ママたちからカナちゃんと呼ばれて可愛がられている。  普段はそれほど堅気くさい人間だが、いったん怒らせるととてつもなく口が悪くなり、喧嘩っ早くなる荒くれであるのは業界では有名だった。下っ端の頃にキタの飲食店で敵対組織の五名と喧嘩になって全員病院送りにしながらも、二那川と久城には絶対服従であることから、敵に“狂犬”とあだ名されている。  若頭専用の事務室に到着するなり雑用係にコーヒーを命じる渋谷の声を聞くともなく聞きながら、二那川はスーツの上着を別の若手に預け、机を回ってデスクチェアに腰を下ろした。それを合図に、渋谷以外の者は室内から急いで下がる。二那川が仕事をする時の習慣だった。  トップである野脇のそれよりも広さは劣るが、二那川の部屋も充分に余裕があった。本人の好みでダークグレーを基調に整えられた室内にはメインデスクの他にPC机が四台並び、仕事の流れに支障と無駄がないレイアウトになっている。久城と渋谷がそれぞれ専用で使っている机にはいずれもタワー型PCが用意され、ぱっと見にはどこぞの企業のオフィスと間違うような空間である。 「どうだ、例の件は」  煙草も吸わず昨晩の間に溜まった書類に目を通し、何枚か捌いてから、自分のPCで作業をしていた渋谷に声を掛けた。  渋谷はキーボードを叩く指先を止め、席を立って机の前に歩いてきた。 「結論から申し上げれば、あまり芳しくありません」 「………」  二那川はペンをスタンドに挿した。  まるでその音を聞きつけたかのようにドアがノックされ、雑用係がコーヒーを盆に乗せて現れた。普段よりもぴりぴりした二那川と渋谷の雰囲気を察知したか、おそるおそるマグカップを置いて『失礼しました』と退散する。  運ばれてきたドリップ済みのコーヒーの薫りも、いつもと違って気散じにはならない。きっと味もしないだろう。  無言で褐色の液体を啜る二那川に、渋谷は書類で膨らんだクリアファイルを差し出した。 「須之内次郎のことをいくらネットで検索を掛けてもニュース一本出てきません。所属していた組は判ったんですが、車田の叔父貴が仰有ったとおり、とっくに解散して組員も全員亡くなってました」 「そっちの線も駄目だったか」 「顧問の森江先生にご協力を願って、裁判記録の線で洗っているところです。窃盗や傷害罪は出てきてるんですけども、肝心の県警キャリアの件は被疑者死亡で不起訴になっていると思われます。先生が、不起訴事件記録の開示請求をやってみてもいいがこの分だと望み薄だろうと――そして久城さんの前を戸籍から追ってみたのですが、これもどうにも。今のところそちらの結果になっています、ご覧下さい」 「やはり一筋縄では行かんな」  A4に印刷された文章の最初に、本人から聞いたことのある大学名が明記されている。 「K大出身というのは、間違いないんだな」 「はい。入学時の合格名簿に載っていました。A県から通学していたというのも裏が取れています」 「県を跨いでも電車で片道半時間だし、実家から通ったんだろう……ちょっと待て、大学で保管してあるはずの書類が消えているだと」 「そうなのです。久城さんの同級生の関係書類はちゃんと残っているのですが、なぜか久城さん本人に関わるものはすべて紛失状態でした」  二那川は唖然としながらページを繰り、またも奇妙な箇所に行き当たった。 「本籍地が、北陸地方――久城はそこに縁があるなぞ、ひとことも話してなかったがな。本家筋か」 「親の戸籍を調べた限りでは、そのようです」 「………」  身の上や思い出話をほぼ口にすることがなく、謎の多い久城だったが、組に入るときに彼はたしかに話した。  近隣A県の出身で、親戚もいないので大阪に出てきたのだと。  標準語ではあるものの消し切れないイントネーションからして、それに嘘偽りはなかったと断言できる。二那川の父親が大阪出身で、関西系の発音に耳が慣れていたからだ。  首を傾げながら戸籍の写しをひとつひとつ追えば、大学卒業時に両親が死んだと言っていたとおりの内容で、両親の戸籍謄本の内容と一致する。本籍は北陸地方だが、住民票の履歴ではずっと関西圏在住となっていて矛盾がない。父親のほうに須之内次郎との縁を示す記載は見当たらないが、たとえば非嫡出子であればこうもなろう。至極当たり前の結果なのに、二那川の本能に違和感という名の糸が絡みついて警鐘を鳴らした。
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

294人が本棚に入れています
本棚に追加