第四章

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 出来すぎているのだ。  己たち裏社会の人間がよくやる“背乗り”を用いた時のように、作られた匂いが活字のあいだから微かに漂う。もしや横河がこちらの調査を見越して、と疑ったがすぐに打ち消した。それほど頭の回る陣営ではないし、そもそもこれは簡単に見破られることがないよう細部に至るまで高度な技が使われており、極道界の手口よりもはるかに緻密だ。  もうひとつ引っ掛かるのは、久城は二那川が把握しているだけで四回転居していて、明らかに住居を変えるのが好みの性格なのに、住民票の除籍回数が少ないことだ。  ――なんだ、これは。  二那川は混乱し、椅子に大きく凭れると腕を組んで天井を仰いだ。  いくら熟考しても、久城との刻で得た情報と、眼前に並ぶ結果に納得の行く繋がりが見出せなかった。  人の生まれ育ちというものは、どんなに隠しても一挙一動に現れやすい。久城はどこから眺めても教養ある中流以上の境遇で丁寧に育てられてきた男であり、組内に飽きるほど存在する乱暴者やチンピラとは完全に一線を画している。  そんな男の家族が背乗りで形成されたような、後ろ暗い環境だったとはどうしても考えにくい。『芳しくない』と渋谷が表現したのは、つまりは彼も自分と同じ理由で、同じ疑問を抱いているということに他ならない。  稼業柄、本人も戸籍ロンダリングの手法を熟知しているものの、自身の戸籍を操作したがるような人間ではない。とはいえ引っ越しのたびに戸籍の写しは必要なのだから、これは本物の記録ではないと見破れるはず。だとすると、本人も納得の上で“背乗り”の戸籍を使い続けていることになる。過去の住民票まで操作されていることを承知しているかは判らない、インフラや金融関係での住所変更の手続きをひととおり終えれば、二回前の住所などまず照会の必要はなくなるからだ。 『とんでもない何かが潜んどる気がしてならん』  まるで、これ以上は何も探すな、完璧な過去を用意して見せてやっただろうと言わんばかりの、断たれた公式記録。  車田の危惧が、もしかすると現実のものとなりつつあるのか。  重苦しい息をひとつ吐き出した二那川は身を起こし、額を右の指で支えながら報告書の文字に戻った。 「久城の様子は、どうなっている」 「それが……だいぶ参っておられるみたいです。あちらの田中という若衆が定時連絡の係になったのですが、昨日PCの前で倒れたそうです」 「倒れただと!?」  気色ばんでデスクチェアを立った二那川の怒声が部屋中に響きわたった。八つ当たりだと自覚していても止まらない。  書類どころか大型の机を蹴倒しかねないその勢いには腹心の渋谷すらもたじろぎ、お待ち下さいとあわてて宥めにかかった。 「食べていないので低血糖で一時的に意識がなくなったのだと田中が言ってました。そいつは元看護師で、砂糖を舐めさせて回復させたと。ゼリー状の栄養剤と粥なら久城さんも口にできるんで、今はそれを食事代わりにして落ちついてきたそうです」 「ゼリーの栄養剤と粥? そんなもので大の男が持つわけがないだろうが、叔父貴は久城を掻っ攫っておいて何をしている!?」 「残念ながら、それ以上の詳しい状況はわかりません。横河の親分が久城さんを部屋からめったに出さず、田中の報告も細かいことは一切許されていないのです」 「出さない、だと」 「はい――」  以前から、飲食を用事の後回しにしがちな性格だった。だから本人の好まないラテ系のコーヒーをあえて奢ったこともある。本人の意識は敬遠しても脳がエネルギー補充を欲する本能に勝てず、少しずつながらも全部口にする様子を眺めるのが楽しみだった。飲み終えた後で礼儀正しく再度の挨拶を行う彼の、良くなった顔色を確かめて帰るのが常だった。  そんな男が、不本意な環境に置かれて食欲が減らないはずがない。まして本人も忌み嫌っている横河に蹂躙されて、精神的にダメージを受けるのは当然のことだ。物静かで自己主張こそほとんどしないが気位の高い男が、どれほどの苦痛に苛まれていることだろう。もしかしたら夜もろくに眠れていないかもしれない――  深呼吸を数度繰りかえして自制し、ようやく冷静さを取り戻した二那川はふたたび椅子に腰を沈めた。  目を閉じれば同じベッドで眠ったときの、久城の寝顔が瞼の裏に蘇る。  情事の疲労で崩れるようにシーツに沈んでいるのがほとんどだったが、時折うなされることもあった。一人のときはもっと睡眠が浅く、しょっちゅう目覚めているのだと想像はついた。  そんな彼の頬や髪にそっと触れるのが、いつしか逢瀬の後のひそやかな習慣になっていた。  もともと他人の容姿を覚えはすれど審美するという観点がなく、長年一緒にいながら気づかなかったことがある。身近すぎたからこそ気づけなかったというのもあるだろう。  寝顔に接するようになって、触れてみて、二那川はやっと知ったのだ。久城の顔立ちの真の美しさを。  しかしそれは、昔はさぞと思わせるような、力を失い萎れた花の美だった。  十代のころはきっと夥しい異性の目を惹いただろうに、今は痩せて血色が悪く、拭いきれぬ翳がまといついて彼の真価を覆い隠していた。  ――何がお前を、そうさせた。  稼業ではない。この世界に入ったとき、久城はすでに今と同じ翳を漂わせていたから。  横河の所業がその翳をさらに深めてしまえば、最悪は命を落としかねない。  一日も早く彼を助けたいのに、久城と須之内の関わりを掴むことで横河を制そうにも、情報の大元がどこもかしこも改竄されているとは想定外もいいところであった。
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