第四章

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 車田でさえ首をひねった、須之内が起こしたという警官の強盗殺人事件はいつ、どこで起こったものなのか。  なぜ警察内で、被害者の名前までもが伏せられているのか。  ――もしかして、久城の過去を辿れないのはその事件になんらかの関わりがあるからか?  これはいったん野脇に見解を仰ぐべきだと二那川は即断した。久城や横河が野脇には何かを打ち明けている可能性もなくはないし、車田とは別の人脈を持つ野脇なら新たな切り口もあろう。細かい事象もおざなりにしない彼の性格なら、この不可思議な現況に食いつくだろうという打算もあった。 「渋谷、至急おやっさんにアポを取ってくれ。今日は朝からミナミで会合だが、昼過ぎはフリーのはずだ。他に予定を入れられる前に押さえたい」 「畏まりました」  渋谷が携帯電話で組長付きの若手に連絡を取ると、昼食を外で摂ったあとで事務所で会う約束をすぐ取りつけることができた。こちらも早めに昼食を済ませて待たなければと考えてから、二那川は胸中で自嘲した。  ――俺のメシなんざ、どうだっていい。あいつは、食うこともできないでいるのに。  久城は今頃どうしているのだろうか。ゼリーや粥だけでなく少しでも食べられていればいいが、めったに部屋から出してもらえないという報告があったばかりだ。こうして自分が手を束ねている間にも感情の起伏が激しい老人に付き合わされ、夜昼なく辱められていることも有り得ると想像すると、臓腑が焼け爛れそうだ。  野脇会の若頭、二次団体の長として異例の出世を果たして采配を揮うようになってもなお、老齢の醜怪な害意の前ではこうも無力とは。己の年齢がこれほど恨めしかったことはない。 「田中とやらの定時連絡は、何日置きだ?」 「二日置きです。二十時に向こうから俺に電話が掛かって来ることになっています」 「毎日に切り替えさせろ。元看護師なら久城の体調も把握できるだろう、そこは絶対に報告させろ」 「はい」  二那川のもどかしさと憂慮を察したのだろう渋谷も、打てば響く返事をしながらも顔を曇らせる。親と仰いでいる二那川と同じくらいに久城を慕い心酔している男だ、彼なりに心配しているに違いない。もし二那川が横河のヤサに行って久城を取り戻せと命じたら、死が待つと判っていても喜んで乗りこむはずだった。 「せめて、何か召し上がれればとは思うのですが……田中の口調だと、手を替え品を替えして、やっとゼリーやレトルトの粥を食べてもらえたみたいですし」 「もともと食うことに関心の薄い奴だからな」  「そうですね。それにこう言ってはなんですが、久城さんは育ちが良い人ですから……そういう人はいくらこの世界で暮らそうが、根っこのところで理解できないと思います。世の中にはクズとクソを一万回重ねても足りないような、そんな最低の人間が存在するってことを。だから余計にお辛いんだと――」  淡々と述懐する渋谷の虹彩は、沼底を映したように澱んで暗い。  几帳面で清潔な身なりをしたこの二枚目が、母親とその内縁の夫に長年虐待を受けた末に施設に引き取られ、苦学生として学歴を携え裏社会に飛びこんだ経歴の持ち主とは誰も想像すまい、と二那川は思う。  彼の定義に沿うなら、父が極道でも二親から愛情を注がれて育った己もそれなりに“育ちが良い”ということになるのか。  ただ、渋谷の良いところは自身と他者を比較しても決して妬まず、むしろ相手の美点を認めて尊敬するところにある。  幼い自分ではどうしようもなかった環境への恨みを他者に向けても益がないと割り切り、血のにじむような努力を重ねることで新たに蓄えた自信が、彼の“揺るがぬ芯”を培ったのだろう。それゆえに己も久城も彼を全面的に信頼している。 「お前の言う通りだ。だからこそ早く何とかしてやらなければならん。引き続き頼むぞ」 「はい。お任せ下さい」  力強い忠誠の返事に二那川もうなずき、書類に戻った。
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