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第五章
行きつけのトンカツ屋で腹を満たした三つ揃い姿の野脇はしごく上機嫌で帰って来るなり、おのが事務室のソファにどっかりと腰を下ろした。心なしか顔の色つやも良く、午前中の過ごし方に満足しきっているのが一目瞭然である。
立っていた二那川に座るよう身振りで示し、子分らも下がらせると紙巻きに火を付けて足を組む。
「やれ、朝も早うから出ると腹が減るもんやな。お前も食うたんか?」
「ありがとうございます。先ほど済ませました」
嘘だった。
何かテイクアウトでもと渋谷に勧められるも、どうにも食べる気になれず冷めたコーヒーを胃に流し込んだきり、約束の時間にジャケットを羽織って野脇を出迎えたのである。
「そうか。ほならええわ。で、急ぎの用っちゅうのは何や」
「車田の叔父貴に訊ねてみましたが、須之内次郎の件が掴めません」
野脇は右の指に煙草を挟んで煙を吐き出すと、背凭れに左腕を大きく預けて笑った。
「そら、訊ねるお前が悪いわ。下っ端もんのことなんぞ車田がいちいち知るわけないやろ」
「そういう意味ではなく、須之内が県警キャリアを殺して自分も死んだ事件のことですよ」
「……なんやて」
野脇の表情が一変した。声ががらりと低くなり、賽の流れを検める時のように目つきが据わる。予想はしていたが、彼にも初耳だったのだなと二那川は思った。足を開いて座り直すように背を起こした組長が、ローテーブルを挟んだこちら側に身を乗り出す。
「いつ、どこでや? そこまででかい事件なんぞ、わしは聞いたこともあれへんで」
「十五年くらい前で、どこで起こったかは判りません。警察庁内でもそのヤマに触れることはタブーで、揉み消されていると――車田の叔父貴もご存知なくて、元デカにも訊ねて下さったのですがこれが限界でした」
「何やそりゃ、警察庁でも揉み消されるようなヤマやて? 横河は須之内がそないなことをやらかしたなんぞ一回もわしに話してへんぞ」
当然だな、と二那川は内心で呟く。期待はしていなかったので、失望はしなかった。横河にとっては須之内は久城を拘束するための大きなネタであり切り札に等しいカードなのだ。小狡いあの男が、やはり兄分の野脇にとてべらべらと話すはずがなかった。
しかし横河を疑いたくないが車田と二那川の情報も疑いたくない野脇は口元を曲げて頬に大きく皺を作り、煙草を揉み消してまた新しい一本を咥えた。苛立ち始めているときの彼の癖だ。覚悟はしていた。自分の言いたいことを優先しようと決めていた二那川はあえて機嫌を取ろうともせず続ける。
「妙な点は他にもあります。久城の前が辿れません」
「お前らしゅうもない、何を寝ぼけたことを言うとるねん、本人がA県の出や言うてたやないか。お前と渋谷が二人掛かりでもあかんかったんか」
「そうです。戸籍も住民票も弄られていて、大学に残されているはずの関係書類も全部消えていました。つまり、目ぼしい記録は偽物と見てよい状況です」
「……久城が、ロンダ? ありえへんな。どこの誰がそないな手間なことをするんや、本人なら尚更しそうにないわ」
野脇にも状況の異様さと緊迫感がようやく伝わったのか、煙草の煙をしきりに吐き出しながら白髪頭をぼりぼりと掻いた。五十年に渡る極道生活で積み重ねた記憶の箱をひっくり返して現状を分析しようとしているらしいが、探そうにもこの件についての情報が少なく不可能という結論に至ったのか特に見解を述べはせず、で、お前はこれをわしに話してどうしたいんやと振ってきた。
やっとここに来たか――満を持して、二那川は切り出した。
「ふたつあります。一つ目は、おやっさんにも久城の前を探していただきたいこと。理由は、おやっさんなら何か新しい情報が得られるかもしれない。以前にも言いましたが叔父貴が証文を取ってまで久城に執着するのが須之内との縁にある以上、それを断ち切りたいんですよ」
「一つ目は完全にお前のほうの事情やないか。お前が横河の言い分に納得が行っとらんのは判るが、なんでわしがそれに手え貸さなあかん? ……まあええわ、わしもちょっと気になるのは気になる。調べてやってもええ。で、二つ目は?」
「叔父貴への処遇を、見直して頂きたいのです」
「………」
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