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第六章
監禁生活が九日目に入っても、久城が横河に反応しないのも、横河の躯の衰えも相変わらずであった。
想像通りと言おうか、おざなりに帳簿を見せた後はろくに中島組のことを手伝わせることもなく、久城を労わるようにとの野脇からのことづても効果はなく、横河の時間が空いてその気になったところに突然暴力を向けられる。はけ口のない鬱憤を求めて彼は鞭で久城をいたぶったり、紐で縛り上げて性具で辱めるという、より陰湿な方法を選ぶようになっていった。
悲鳴を上げれば喜ばせてしまうと耐えればそれがますます気に食わぬようで、今日も鞭のうなりが空気を裂くたびに肌を傷つけた。被虐趣味がない久城にとってはただの苦行で、女性なら落命しているかもしれない暴力にも死ねないことに自嘲していると、横河にベッドの上に放り出すように押し倒された。
「ええか久城、お前が男もいけると聞いて、政界や財界のお偉いさんで前々から舌舐めずりしとる奴は大勢おるんや」
自分で凌辱するだけでは飽き足らず――薬の力を借りなければ身体に押し入る力も持てないからだろうが――他人に供しようというのか。
発想のおぞましさに鳥肌が立つ。
「お前の目にはまだ光がある、二那川がどうにかしてくれるとでも思うとるんやろ? そのうちお前も軽井沢に連れて行ってやるわ、豪勢な場所で可愛がってもらえばその甘い考えも変わるやろし、淫乱な身体も満足できるようになるかもなあ?」
この男が熱海に大きな別荘を構え、友人知人を招いていることは組内で知られている。何かと力を誇示したがる性格なのに、軽井沢にも別荘があるという話は今日が初めてだった。訝しまれていることに気づきもしない横河は歪みきった顔をさらに嗤いに歪ませ、久城の前髪をいきなり鷲掴んだ。
「須之内がことあるごとに自慢しとったわ、お前のお袋は目の覚めるような別嬪やったとな。お前のツラ見れば判る、二那川が手ェ出すのも無理ない。その気のないわしでもこうやからな、そっちが多いお偉いさんも、そらお前に目ェつけるわな。まだかまだかとせっつかれて、わしも困っとるくらいや」
老木の樹皮のようにどす黒く皺だらけの顔に浮かぶ、醜悪な怨恨。
久城は横河の鼻先を避けるために顔をよじり、懸命に不快感を堪えた。同じ空気を吸うことさえ耐えがたかった。
――いつまでこの男は現実から目を逸らしつづけるのだろう。
彼が自分に執着するのは母譲りの顔立ちが要因でもなければ性欲でもない、ましてや須之内の敵討ちでもない、二那川の存在ゆえだ。女好きの二那川が唯一抱く男だから奪って卑小な優越感を味わいたいのだということを、まだ自覚できないのか。それとも直視したくないのか。
老いた侠客の嫉妬深さに、久城は戦慄さえした。
野脇が惚れこんだほどの二那川のカリスマ性も度胸も男ぶりも、横河は持ち得ない。侠客としての格が二那川にはるか及ばないと自覚しているからこそ、横河はずっと足掻いてきた。そこへ持ってきて、老いと病による男性機能の減衰。彼のあらゆる劣等感と焦りがどれほど煽られたかは想像にかたくない。
野脇に弟分としてあれほど贔屓されているにもかかわらず、この男の内側に穿たれた強欲の沼は底なしに不満ばかりを溜め続け、はけ口としてこの身に侮辱を繰りかえす。二那川本人に鬱屈が向かわないのは、搦め手から攻めるほうがよりダメージを与えられると熟知しているがゆえの卑劣。うまくすれば二那川と自分、両名をもろとも沈めることができるからだと久城は理解していた。
蛇のような男だと敵方に倦厭されてきた意味が、改めて実感できる。
近づかれるだけでこちらの肌が腐り落ちそうな臭気は、まさに蛇そのもの。藪の中でじっと身を潜め、音もなく忍び寄り、背後から鎌首を持ちあげて首に巻きつく陰性の質はしかし、立場が下の者にのみ発揮されるがゆえにたちが悪い。兄貴分が相手の時は身を張ってでも彼を守ろうという殊勝を呈するものだから、野脇も彼を大事にしてきた。
だが、いくら長年の兄分とて、いつまでも自己中心的な舎弟を庇い切れはしまい。
二那川を葬ると横河が宣言した日まであと一週間だが、こんな無為なことを続ければ続けるほど、憎んでやまぬ相手よりも早く自身の首を絞めるだけなのに――
心の中で呟いたとき、久城の意識が一瞬途切れた。
※ ※ ※
頬を何度か軽く叩かれ、目が覚めた。
ベッドから離れる横河の雰囲気からして、ほんの十秒ほどだったらしい。手首の紐は解かれていた。
引き攣れるような痛みを訴える身を無理に起こすと、ソファに下品な所作で座った横河が言った。
「女を呼んどってな、そろそろ着くと連絡があったんや。お前はここにおれ、服着ろや。その身体じゃ女が怯えてしまうわ」
そうさせた本人への抗議すらも疲労で湧いてこない。
無言の久城はホワイトシャツとスラックスを着用し、ベッドから離れた。
横河は薬も飲んでいないのに、ここにプロの女性を呼びつけて何をしようというのだろう。彼か自分に性的な奉仕をさせるのか、まさか三人でという身の丈に合わないことは計画していないだろうが。
首を傾げていると、廊下を踏みならす慌ただしい複数の足音が近づいてきた。
どこか不穏な物音に不安を覚える暇もなく、ドアが開いた。
現れたのは高級風俗のプロどころか、ブラウンに染めたストレートの髪を振り乱し、桜色のワンピースに同色のジャケットを着た、明らかにクラブの若い女であった。両脇を野脇の子分らにがっちりと抱え込まれ、寝室に引き摺りこまれようとするのを決死の表情で抵抗しているが、地位の高そうな横河の姿を認めるなり、もう駄目だと諦めたのか棒立ちになった。
「親父さん、連れて来ました」
「おお、ええ女を見つくろってきたなあ。ようやった、帰れ」
女が室内に押しやられ、されるがままに数歩、つんのめるように機械的に進む。
――彼女を、無理矢理に拉致して来たのか。
久城は衝撃のあまり蒼白になった。吝嗇な横河が金を惜しんだというよりも、彼自身がより興奮する手法を選んだのだ。
判り切ってはいたが、なんという鬼畜な男なのか。
怒りを呼吸で抑えるのがやっとだった久城の耳に、さらに信じられない命令が突き刺さる。
「おい久城、わしの前でこの女を抱いて啼かせてみいや」
「………!」
振り返ると、下卑た笑いをにたにたと広げた横河がソファから自分たちを観察していた。
この身が女性に簡単には反応できないことを知っていて、恥を何重にも掻かせようという横河の企みを、久城はようやく悟らざるを得なかった。
「お偉いさんたちは、女との乱交も好きなんや。お前が女をいいようにでけへんと、嗤われるで? これも練習や、俺の温情をありがたく思え」
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