第六章

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 乱れたロングヘアの隙間からこちらをおずおずと窺うおびえた女の表情が、叔父に意のままにされた母の姿と重なった。  母もきっとこんな風に恐怖し、必死で抵抗し、男の腕力に敗れたに違いない――  久城は横河と叔父に、そして彼らと同類となった今の己に心底からの殺意を覚えた。横河に感情を読まれないよう厭悪を噛み殺し、女の膝裏と背に腕を通して一息にベッドに押し倒した。反対側の壁際のソファに座って見物を決め込んでいる横河とは距離がある。暴れる女の両腕を捕らえてシーツに押し付け、覆い被さるふりをして耳元に囁いた。 「君をどうこうするつもりはない、大丈夫だ、落ち着いてくれ」  錯乱状態の女は首を左右にしてもがき、華奢な脚をがむしゃらにばたつかせる。もう一度同じ台詞を繰り返すと、やっと耳に入ったか、動きが少し大人しくなった。 「そのまま抵抗する仕草を続けるんだ。声は出すな。酒は飲めるか」  最初は猜疑を露にしていた女だったが、本当に何もされないと安心したのだろう、察しよく頷いた。 「君にこれから酒を飲ませるから、頭痛でも目眩でもいい、急に気分が悪くなったふりをしてくれ。あとは私に任せろ」  目顔で女が承知を知らせる。久城は起き上がってベッドから降り、訝しそうにしている横河に言った。 「女は大人しくさせましたが、自分は酒を飲まないとどうも気分が乗りません。ナポレオンを頂きます」  卑しい笑みを浮かべた老人は、好きにしたらええと答えた。  久城はグラスとボトルを取って引き返し、サイドテーブルに乗せると生の酒をグラスに注いで飲んだ。  もう一度口に含んで、女を引き寄せる。  手の込んだ演技をしなければ、狡猾な老人は騙せない。  口移しにも女は逆らわず、素直に身を預けてくる。恐怖による表情の歪みが取れてみると、目鼻立ちのはっきりした、かなり美しい女だった。与えられたアルコールを彼女は飲み下すなり、いきなり久城を突き飛ばして横河から見えない位置に上体を捩ると、喉に指を突っ込んで酒を吐いた。  突然もがき苦しみ始めた女に横河も驚き、立ち上がって様子を見に来る。久城は自分も面食らっているふりをして、何度も咳き込んでいる女の背をさすった。 「どないしたんや久城、何やこれは!」 「わかりません、少ししか飲ませてないんですが――申し訳ありません、もしかしたらここに来る前にも相当飲んでいたんでしょうか」  使い捨てに連れ込んだ女にベッドを汚された上、遊興を潰された横河は舌打ちした。 「とっとと風呂に連れて行け、きたならしい! 何もかんも台無しや、興が醒めた。今日はもうええっ! おい田中っ、シーツ始末しろや!」  心中密かに安堵した久城はすかさず女を洗面所に連れて行って閉じ籠ると、バスルームのシャワーを全開にして会話が漏れないようにした。 「大丈夫か。辛かっただろう、言う通りにしてくれてありがとう」  タオルを用意しながら小声で謝罪する久城に、女は口を漱いでから掠れた笑いを見せる。 「礼を言うのは、こっちです……これくらいした方が、いいかと思って……大丈夫」  無理に作った笑顔がいっそう痛々しかった。  手と口内を何度も洗い、水道水を飲んだ女は、久城からタオルを受け取って雫を拭う。メイクが落ちて蒼ざめた顔色が目立ったが、気にしている場合でないことはお互い判っていた。横河の思惑を潰した女は、無事ではいられない。自分が盾になってでも、巻き添えを食らった彼女を救わなければ――久城はバスタオルを素早く彼女の肩に巻き付けて病人らしくさせてから、言い聞かせた。 「君を外まで送って、信頼できる人に任せる。その人の指示に従っていれば大丈夫だ、いいな」 「その人も、ヤクザ?」 「すまないが、そうだ。だがあの人みたいに乱暴なことはしない、君をきっと守ってくれる――歩けるか」  こくりと女は頷いて、久城に寄りかかりながらバスルームを出る。よろめく足取りを支えた久城は、ベッドメイクをしている田中を尻目にいまいましそうに酒を呷っている横河に告げた。 「この女はブランデーに弱かったようです、申し訳ありません。下まで彼女を送ってから戻ります」 「お前が行く必要はあれへん、田中にやらせえ!」  激昂した横河がこちらに向かってグラスを投げつける。女を庇って避けた久城の横をぎりぎりですり抜け、床で粉々になった。ガラスが割れる音に田中が急いで駆け寄った。 「おやっさん!?」 「うるさい、くそがっ、お前はええ!」  頭に血がのぼった横河が立ちあがり、顔面を真っ赤にして鬼の形相で怒鳴りつける。田中は錯乱に近い老人の癇癪も意に介さず、まあまあと軽い口調で応じながらさらに近付いた。 「おやっさん、血圧がせっかく下がったのにまた上がりまっせ? 浅生先生にも養生するよう言われたばかりじゃないですか、すぐ薬持ってきますんで」  介護施設にもいたという田中の宥め方は巧みなものだった。荒れ狂った横河も古馴染みのかかりつけ医の名前が出るとさすがに多少落ちつき、ソファに再びどかりと座った。 「おう、早く薬持ってこい!」 「はい!」  元気よく返事をしざま身を翻した田中は、久城の側をすり抜けるときにごく小さな早口で囁いた。 「待っててください」 「………?」  警戒を緩めず、女をなおも後ろ手に庇ったまま待っていると、薬のPTPシートを持った田中が若手の下っ端を連れてすぐ引き返してきた。 「おやっさん、薬持ってきましたんで藤尾に任せます。俺はお言いつけどおり、久城さんと彼女を下まで送ってきます」 「えっ、オレがっすか!?」  藤尾と呼ばれた坊主頭の若者がうろたえるのも意に介さず、舎弟に薬と割れ物の掃除を押しつけた田中は久城の前で寝室のドアを開いた。 「行きましょう。ガラス踏まないようにしてください」  若々しい足取りで廊下を突っ切り玄関に向かった田中が、鍵を開けて久城たちを外に導く。  玄関先の見張り役が田中に頭を下げた。  短い金髪の後頭部がまるで目印であるかのように、二人は彼のあとに続いて内廊下をエレベーターまで進んだ。重い空気に押されたように女も無駄口は叩かなかった。  ボタンを押した田中がそこではじめて久城を振りかえり、携帯電話を取り出してロックを解除した。 「久城さん、俺のケータイ使って下さい。誰を呼びますか」 「―――!」
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