第六章

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 意外な申し出に久城は返答を忘れた。罠を疑った。  たしかに初日に携帯電話を取り上げられて、以降は誰にも連絡できない状態だ。組に入った年数からすればまだ中堅未満だが横河の忠実な配下である彼が、なぜこうまで自分寄りの行動を繰り返すのか。  しかし田中はいかつい顎に人懐こい笑みをほんのわずか浮かべ、続ける。 「渋谷さんですよね? 電話帳に入ってますんで、待って下さい」  二、三回画面をスワイプした田中が呼び出しを始めると、半秒も経たぬうちに渋谷の無愛想きわまりない、画面越しに相手を殴り倒す拳が伸びて来そうなほどの怒声が飛び出た。 『てめえ、今ごろ定時連絡ってか!? 三時間も遅れてぬけぬけと掛けてきやがってクソノロマが、こちとらてめえと違って忙しいんだよ! さっさと久城さんの状況を話せや!!』 「もう、いつもそう突っかからんでくださいよ、こっちも忙しいんですって。久城さん本人に替わりますから」  エレベーターが止まった。  田中は左右に開いたドアの奥に素早く入って『開』のボタンを押すと、真顔で電話を差し出す。女の背に手を添えながら自らも籠に乗りこんだ久城は、機器を受けとった。籠が降下を始める。  5、4、……と電子パネルの階数が着実に減ってゆくのを眺めながら電話を耳に押し当て、口を開いた。 「渋谷、俺だ」 『久城さん……!』  人が入れ替わったかのように打って変わって礼儀正しく、心からの憂いの籠った悲しげな呼び掛け。  この十日近く、彼に連絡のひとつも取ることができなかった。どれほど心配を掛けたことだろう。  己と同等に二那川の懐刀として知られる“狂犬”をこのヤサに招けば最後、一目で多大な情報を抜かれると横河は警戒し、絶対に近づけようとしなかった。田中の思惑はどうあれ、渋谷に直接繋がったのは予想外の僥倖であり、この機会を利さねばならない。久城は短く告げた。 「叔父貴のマンションのエントランスに今から下りる。女をひとり預けたい」 『判りました、すぐに俺が向かいます。五分ほど待ってて下さい』  一階に到着した。広々としたエントランスホールに横河の護衛担当の若い三名がいる。万が一、二那川に踏みこまれた時の防波堤役に違いない。彼らは田中が久城と女を先導していることに怪訝そうな顔をしたが、余計な動きはしなかった。  通話を切り、ホール中央ソファに女を座らせると、自分たちと車寄せの両方が見える自動ドアの近くに佇む田中に歩み寄った。礼を言おうとした瞬間、田中の携帯電話が鳴った。すんません、と軽く頭を下げた田中がスピーカーホンで着信する。 『兄貴! おやっさんが薬を飲んだあとにふらついて、ソファに倒れちまったんですけど!?』  半べその情けない訴えが、藤尾の声でまくしたてられる。田中は眉ひとつ動かさずのんびりと答えた。 「あー、お前まさか、水で薬飲ませなかったのか」 『そんなの知らないっすよ、おやっさんがテーブルの焼酎をコップに注いで一気に飲んじまったんですから!』 「薬飲むのは水ってことくらい超フツーの常識だろ、お前も気ぃ利かせろよな。心配すんな、薬が早めに効いただけだ。後で俺も上がるから、待ってろ」  久城は目を見開き、次いで眉を顰めた。  これは偶然の結果ではない。田中は明らかに薬の相互作用と組長の気性、弟分の知識のなさを利用して横河を昏倒させた。  いったい何のために? 彼の目論見は何だ?  電話をポケットに仕舞う田中を凝視する。相手はまた人懐こく笑った。今度はやや遠慮しているような風も垣間見える。金髪に右手を遣り、大柄な背を縮めて目を伏せると、小声で呟いた。 「おやっさんの、久城さんへの当たりがあんまりキツいんで……見てられなくって。余計なことして、すんません」 「……叔父貴の体調は?」 「心配ないっす。高血圧の薬とアルコールって、相性良くないのもあるんすよ。焼酎で薬を飲んだんで、血圧が急に下がり過ぎたんでしょう。本人も薬がよく効いたと勘違いして朝まで寝てると思います――あ、渋谷さんの車来ました」  車寄せでエンジン音が止まり、黒塗りのレクサスからスーツ姿の長身が慌ただしく現れた。  久城は待っていた女に合図し、自動ドアをくぐって外に出た。暖房の効いているエントランスから一転、冬の風が薄着に沁みる。ああ、もうすっかり真冬なのだとそんなことさえ奇妙に懐かしく、監禁されていた間に自分の傍で過ぎ去った日々の長さを痛感する。  渋谷が久城を認めるなりトランク側を回り、駆け寄ってきた。 「久城さん!」 「手間を掛けたな渋谷、彼女だ」 「とんでもない」  女を後部座席に入れながらも渋谷は矢継ぎ早の問いを発したそうだったが、まるで彼の前にだけ見えない雨が降っているかのように自動ドアの庇から動かない田中を目で指した久城に気づき、敏く口をつぐむ。数メートルといえど声が届く距離で、迂闊なやりとりはできない。 「渋谷、携帯電話を貸してくれ。テキストアプリを」 「はっ」  電話を取り出した渋谷がすぐさまアプリを立ち上げ、渡してくる。  自分の身体で画面を隠しながら久城は短く文章を打ちこんだ。 『今後一週間は(カシラ)の安全に気をつけろ。お前に会えたのは田中のお陰だ。女はしばらく匿ってくれ。叔父貴のところに相月のキャバとホストクラブの完璧な帳簿、自分が手伝うことはなにもなかった。叔父貴は軽井沢の別荘でVIPと会っているようだ』  渋谷が瞬時に読み下し、目で合図後にテキストを全消去する。  これが限界だが、彼ならきっと期待通りに動いてくれる。  久城は車から数歩下がった。渋谷が運転席に回りこみ、ドアを開いた。  今日も、貴方は叔父貴に――忠実な配下のその眼差しに、久城はかすかに唇の端を持ち上げることで応える。渋谷は口惜しそうにしばし久城を見つめてから目を逸らし、車に乗り込んで走り去った。  一週間後に何が起きるのか、久城も神経を尖らせて横河や子分らの行動を探ったがいまだに突き止め切れず、謎のままであった。とにかく二那川の身の安全が最優先だと伝えられただけでも良かったと思うしかなかった。  渋谷に託したあの女もきっと今夜の一部始終を正確に伝えられるだろうし、それを聞いた二那川も、女を保護してほしいとの意図を察してくれるはずだ。彼女の美しさに、もしかしたら二那川が男心を誘われる可能性もあるが、彼ならば決して無体なことはしない。  田中を促し、エレベーターに乗って六階に向かいながら久城は己に問う。  彼女を保護させると同時に渋谷に伝言するのが、最大の目的だった。それ以外に考えなどなかった。けれど自分が抱かされ掛けた相手を二那川の許に送り届けさせたのは――せめて、知っている女性と会ってほしいと無意識に願ったからではないのか、と。  どこの誰とも知らぬ者ではなく、自分が接していた女性を。  そうすることで、二那川と何かを共有しようとしたのではないのか。  愚かなことをしたものだ。
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