第六章

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『その人も、ヤクザ?』  掠れた問いには玄人とはいえ一般人であり非力な女性であり、さらには横河の配下に拉致されたがゆえの、三重の委縮が滲んでいた。  咄嗟にすまないと謝ったが、自分自身はヤクザになったのが間違いだと思ったことはない。道を外したとも思わない。そもそもの人生の始まりからして、己は間違い、倫紀を外していたのだから。  それを正されたいとは願わなかった。直そうとすら考えなかった。  肯定してもらいたいわけでなかった。誰に非難されようがどうでもよかった。ただ、それもひとつの人間の道なのだと自分を納得させ、諦めさせてくれるものが、欲しかった。  それを与えてくれるのは、二那川しか居なかったのだ。  ――そう。二那川は、久城にとって唯一の、絶対的な光だった。  自らが光芒を放っているかのような、強烈な存在感。自信に裏打ちされた絶対的な矜持と強さが他者を惹きつけ、牽引してゆく。  汚濁の中だからこそ、その光は闇を持つ者の希望となる。  抱えた闇を嫌悪していた久城は、二那川に出会った瞬間に、これが自分の道だと思った。善悪も、世の軛も関係なく。  抱かせろ。そう命じられたとき、戸惑いはあったが厭悪はなかった。極道での兄弟そして主従という関係に充分満足はしていても、意識の深層ではこうなることをずっと望んでいたと知った。二那川に奪われて支配されることに、心のどこかが深い喜びを覚えてすらいた。己の中に流れる血も、自らを激しく憎む歪みも、何もかも忘れさせて無にしてしまうほどの二那川の懐の大きさに溺れた。  久城の自己破壊欲を呑み込んでなお揺るぐことのないその強さは、すべてを芯から預けても大丈夫だという安堵感をもたらした。張りつめた生き方しかして来なかった久城が始めて得た安らぎだった。  けれど、舎弟として信頼されても、情人としてはただ目先の物珍しさしか求められていないと理解していた。  女の移り香が途切れない二那川の日常に嫉妬するのは身の程知らずと承知していた。  それでも身体は正直だ。肌を重ねるたびに二那川の愛撫を悦び、火照って絡みつく我が身をあさましいと諫めても、どうにもならなかった。そんな久城を二那川は突き放すどころか一層求めてくるのが、刹那の至福と終わったあとの切なさを深めた。  彼への想いが尊敬や恋愛というよりも依存に近い、危険な感情であると理性は弁えている。けれど両親の睦まじい姿を信じていたにも関わらず、根底から覆されてしまった久城には、“まっとう”な愛し方が判らない。  いびつな想いしか抱けない自分が、二那川の愛を得るに相応しいわけがないのに。だのに愚かなことをしてでも縁を繋ぎとめたい我執を久城は嗤い、田中の先導で横河の部屋に戻った。   ※ ※ ※    久城とほんの一瞬接触できた、と渋谷が二那川のマンションに報告に現れたのは、深夜前のことだった。  まさかの朗報に二那川は驚いたが、しかし痩せて顔色もかなり悪かったという渋谷の印象には心を暗くせざるを得なかった。予想通りであってほしくないことだった。  テキストアプリに綴られた内容も漏らさず耳に入れると、そこから二、三の新たな指令を与え、久城が託したという女の話題に移った。横暴な横河を宥めるために、久城は身体を今夜も供するのだろうと暗澹とする。縁もゆかりもない行きずりの女を助けるために。あの男はそういう人間だ。 「女はどこだ」 「車で待たせてます。横河の叔父貴が面子潰されて女を半殺しにしかねないらしくて。ほとぼりが冷めるまで風俗店の女たちが使ってるシェルターに連れていきます」 「連れてこい」 「え……」  意図を察知した渋谷が驚き、言いにくそうに口ごもった。 「その……化粧も落ちてて、かなりボロボロですよ。叔父貴のヤサから逃げるために、久城さんの指示で酒をわざと吐いたと話してましたし」 「構わん」  ためらう渋谷が携帯電話で舎弟に話し、女が部屋に上がった。二那川を目にするなり彼女の顔つきが変化し、視線を意識した姿勢になる。こちら側は見覚えがないが、向こうは勤めの最中にどこかで顔と名前を知ったのだろう。  二人きりになったリビングに、海外製の香水の匂いが満ちる。バランスの取れた肢体が目を引く。  渋谷が言ったとおりメイクも半分落ち、淡いピンクのスーツも拉致された時に抵抗したものか襟が一部破れている。装いが乱れた姿で異性の前に立つのは水商売のプロとしても女性としても本意ではないだろうが、今の二那川にとってはそれらは問題にもならなかった。  ソファの傍に立たせ、短く状況を問うた。  クラブから無理に連れ込まれた先に六十代の親分らしき小柄な老人と、三十代であろう背の高い美男がいた。老人が彼に、自分の目の前で女を抱けと強要した。男性に小声で体調不良の芝居を指示され、口移しで酒を与えられたあとにベッドでわざと吐いた。そして洗面所で彼に言い含められた通りにここまで来たと女は簡潔に語った。  よくあの下衆な横河の狙いをかわして逃がせたものだと思う。久城でなければ無理だったはずだ。二那川は女をじっと見つめた。    久城がつい先刻までその指で触れ、その声で語りかけ、その唇で辿った痕を持つ女……    二那川の中の何かが弾けた。  彼女に目を留めたまま手を差しのべる。  女は進んで身を預け、腕をなまめかしく首筋に絡めてきた。 「――止めるなら、今のうちだぞ。下に車は停めたままだ」  女は首を振った。  ふっくらした唇を塞ぐと、女も応えてきた。  全身の感覚が、久城の薫りを一心に追おうとしていた。  眼前に居るのは生身の女だったが、二那川にとっては久城の影を帯びた人形のようなものだった。美しい夜の女だからではなく、久城が触れたから、ただそれだけが、今という刻の理由だった。    
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