第一章

2/5
前へ
/66ページ
次へ
 組長の弟分でもあり舎弟頭でもある横河周蔵を前にして、二那川は抑揚のない声で挨拶を述べた。彼が連れてきている子分たちは前もって人払いされており、大型の観葉植物に囲まれたボックスには誰もいない。文字通り二人きりの座だった。 「お久しぶりです、叔父貴。ここまで足をお運び頂かなくても、呼んで頂ければよかったものを」  薄い白髪頭を撫でつけた六十五歳の老人は、目の前に腰を下ろした二那川を睥睨する。その勝ち誇った目付きがいやな予感を掻きたてたが、二那川は相手の出方を待った。正岡が静かにブランデーを置いて下がるのを待ちかねてから、横河は口を切った。 「お前が待っとるやろうと思うてな。時間を潰させんためにわざわざ来てやったんや」 「は?」 「久城は、わしがもろうたで、二那川。もうすでにわしの家に向かわせとる」   ――何を言っているんだ、この年寄りは。それが率直な感想だった。  二那川が野脇組に入った当時から、この男は少しも変わっていない。矮躯にふさわしい佞姦な小さい目に下品な口元、遠回しな物言いとねばつくような考え方。ただ陰湿というなら構わないのだが、横河のそれは黴のような不快さをもたらすもので、二那川は以前から彼のことが嫌いでならなかったし、横河も二那川のことを『小生意気な小僧』と呼んではばからない。二人の仲が決して円満と言えないことは、組内では公然の事実だ。 「もう少しはっきり言っていただけませんかね、叔父貴。久城がどうしたというんです」 「おや、お前にしては頭の巡りが悪いのう。久城がこれからはお前やのうて、わしの相手をすることになった、と言うとるのに」 「相手、ですって」 「もう兄貴にも了解は取ってある、あの男はこれからは、稜菱会からわしの組に正式に派遣された、いわば客分じゃ。昼は助っ人、夜はわしの女。最高の待遇じゃろうが、え?」  二那川は我が耳を疑った。  可能性がゼロである事象に対して、憶測が届かないのは当たり前の話だ。  久城が野脇組を離れることも、それを組長が許すことも、二人の関係が横河に知られていることも、彼が自分以外の男に抱かれる――横河はたしかにそういう意味を告げている――ことも、あまりに予想外だった、だからこそ『久城はもらった』と言われても理解できなかった。だがそれは目の前で確実に進行している事実だということが判った瞬間、酔いがすっと醒めて行った。  なぜ久城がこのタイミングで目を付けられたのか、横河の舌なめずりを見れば想像するまでもない。  右腕として信頼できる上に情事の伴侶でもあるという、二那川にとって二重の意味で重要な存在となったから取り上げたのだ、と。  しかし自分が狼狽えれば狼狽えるほど相手は喜ぶ。隙を見せてはならない。喉首を締め上げてやりたいほどに怒りが荒れ狂っているにもかかわらず、二那川は余裕ある嗤いで一蹴した。 「先ほどから何を仰有るやら。言うに事欠いて、妄想を並べ立てられても困りますが」 「妄想やて? 小僧はすぐに現実逃避したがるからあかんな。お前らのことは、わしは疾うから知っとったわ、兄貴も今日聞いたら、薄々は察しとったぞ。下のもんに知られてないから言うて、わしらの目も同じ節穴とでも思うとるんか」  横河は二那川がなかなか崩れないことに不機嫌になり、ブランデーを呷ってから続けた。 「中島組が煩いうえに、ちょうど女にも飽きとったところや。久城がおったら二人分が一人で済む、女を呼ばんでええ分がな」  二那川はグラスには目もくれず、わざと投げつけられる挑発にも動じず、険しい視線を相手に据えたまま言った。 「親父さんにもそれを言ってるんでしょうね、久城を男妾にもするってことは」 「言うとるわ。兄貴はあっさりイエスて言うたぞ、奴も、文句も言わんと車に乗ったわ。お前らの間は簡単なもんじゃのう」  ふんと鼻を鳴らしてグラスを干す喉に、老いの衰えが目立つ。横河の醜怪な相貌はその性根を表してあまりあった。  二那川は正視に堪えない顔から目線を外して酒を飲むふりをしたが、頭の中では冷静に思考を巡らせていた。    言葉でまず相手の出鼻をくじき、精神的に攻撃しようとするのが横河のやり口だ。二那川はこれまでの内容を話半分に受け取った。  野脇と横河の交渉がそこまで簡単であったわけがない。  組を取り巻く今の状況で久城を野脇組と稜菱会から離し、傍系の横河組に貸与することがどれほど危ういことか、野脇こそが一番よく判っているはず。どんな陰険な論法で野脇と久城を追いつめたのかと思うと、会合のためとはいえその場に居合わせなかった自分に切歯扼腕した。居れば、横河に対してもっとも遠慮がない自分がこんな馬鹿な交渉に一切耳を貸さず、とっとと追い出したであろうに。  とにかく、久城を一刻も早く取り戻さなければ。組のためにも――己のためにも。今ならまだ間に合う。  だが横河はグラスを置くなり、懐から出した封書を二那川の眼前に突きつけた。 「まだ、どうにかなるとでも思うとるらしいから、特別に見せたる。兄貴からちゃんと判を取っとるんや、お前が煩いやろうから、わざわざ書いてもろうたものや。ええか、お前が勝手に動いたら、兄貴の面を汚すだけやで」 「………!」  二那川の思索が凍った。  白い紙の末尾に流れる達筆な署名。  紛れもない、野脇の直筆だった。  こうまで網を張って久城と自分を陥れようとする横河の意図は、一体何なのか。気に入らない年下の若頭に対する積年の憎しみのためというには、手法も行動も念が入り過ぎている。野脇まで巻き込んだ前例のない横紙破りの理由はどこにあるのか。二那川はきりっと唇を噛んで封書を収め、相手に返した。無表情を保ちはしてもさすがに困惑と動揺は止められない。老人はようやくとどめを刺せたことに溜飲を下げたか、重い腰を上げて、捨て台詞を吐いた。 「心配せんでも、たっぷりと可愛がってやるわ。お前に仕込まれとるからには、さぞかしええ声で鳴くことやろな。楽しみや」  下卑た笑いを残そうとした横河の口元が、一緒に立ち上がった相手を目にすると同時に引き攣った。  二那川の眸は、冷徹な光を湛えて老人を眺めていた。  たしかに横河は己よりも場数を踏んでいる、野脇の弟分として尊敬もしなければならない、だがこんな卑小な人間に易々と屈服するには二那川の誇りは高すぎた。横河は二那川の眼光にしばし怯みを出したが、どう考えても自分に形勢の駒が集まっていることに胡坐をかいているのだろう、話はそれだけやと捨て台詞を吐いてクラブを出て行った。  二那川は塩を撒いてやりたいのをやっとの思いで堪え、久城に連絡を取ろうと携帯電話を取り出したが、その時、向こうから電話が掛かっていたのを知った。  日時は昨日の午後十時。最初の会合を終えて車に乗っていたころだ。あわただしい移動にマナーモードの振動が紛れてしまい、気付けなかった。   すかさずリダイヤルしようとしたが、すぐに思いとどまった。  あの横河のこと、この後で二那川が連絡を試みることくらい見越して、久城の携帯を取り上げているはず。電話を掛けるという行為を、二那川があわてているとみなして大喜びするに違いない。抵抗もせずあっさりと受諾したという久城の真意を問いたかったが、手ぐすね引いて待っているであろう敵に餌を与える気にもなれず、あきらめた。  自分が久城と別れて組本部を出たのは午後九時。それから一時間後といえば、久城と野脇の話が終わり、横河に引き取られる直前のタイミングか。  携帯には注意を払っているというのに、なぜよりにもよって今日、気づかなかったのか。  久城は一体何を自分に話したかったのか。  今夜を約束したときの、彼の双眸が脳裏に蘇った。湖の奥に徹る月光のように、静かな光を宿した瞳を。  あの光は己のものになるはずだった。身体ごと奪い、二人だけの長い闇を共有するはずだった。    二那川は眼前に不躾に立ち塞がった存在を、許す男ではない。まして憎んでいる横河が相手ならば尚更に。  腹の底からこみ上げる深い激怒に、それら以外の何かが混ざっていることを二那川は薄々自覚していながら、追求はしなかった。正岡に引き上げを告げ、『秋』を早々に去った。行く先は組本部、まだ自宅に下がってはいないであろう野脇弦大に会うためである。
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

293人が本棚に入れています
本棚に追加