第七章

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「相月側が、叔父貴を懐柔するために上物(うわもの)を用意したのでは」  言下に二那川は否定した。 「相月は吝嗇だし、大京もあれで大企業経営者だ。無駄なことは絶対にしない。叔父貴にそこまでしてやる価値があると思うか?」  辛辣な低評価に、傍らの革鞄から別の書類を取り出した渋谷は困り切った苦笑で応じるのみ。  黒い眼鏡フレームの奥から、大きな二重の瞳が宥めるようにこちらを見つめる。 「大京がセレブ接待用の別荘をはなから持っていて、実質の運用は相月とイベントプランナーに任されていた。そこに叔父貴を呼んで乗せたと見るべきだろう。が……」  解せないことがある。  いみじくも自分が言及したように、相月は無駄な出費を嫌う男だ。  新たなA4ファイルの表紙を広げて文面を追いながら、二那川は沈思した。    彼の根城は名古屋と東京にいくつかあり、渋谷が触れた六本木の『Diamant』という会員制の超高級クラブが裏社会では特に有名であった。   もちろん暴力団との関わりを匂わせるものは一切排除され、表向きの名義は歌舞伎町で大物経営者と知られた人物の所有になっている。金を持っているがマスコミに嗅ぎつけられたくない人種が内輪のパーティーや集まりに安心して利用できることから、プロスポーツ選手や若手経営者らが顧客層に名を連ねていた。  他方で、裏では売れっ子芸能人やモデルが薬関係で出入りしたり、異性同性問わず乱交イベントも行われているという噂が絶えない店でもあった。二那川陣営がいくら探っても穴がないほどセキュリティも緘口令も徹底され、退職したバーテンダーや女たちから辛抱強く集めた資金源の手がかりが纏まるようになったのは、ここ半年のことだ。  アガリは大きいが管理にもそれほどの神経を使う店を抱えておきながら、遠い長野県の軽井沢に類似の拠点を作るのはリスク分散のつもりで、かえってハイリスクになりやすい。相月もよく心得ているはずなのだ。  だとすれば、わざわざ軽井沢の別荘運営に一枚噛まねばならない、あるいは噛みたい理由があるということだ。  この建家は内外の超富裕層である企業経営者や、代々の政治家が別荘を構えるエリアのど真ん中に建築されている。ということは『Diamant』とは一味違うハイソサエティ層をターゲットとして狙っているか。もしくは、都内よりも人目が少ない場所で、触法の悪事を企んでいるか。  ――両方だな。  軽井沢への出入りを目撃されたという『Diamant』の特上顧客には、政変で失脚した中東の某王子も含まれるという一文を読んだ瞬間、二那川は胸中でつぶやいた。  大京は幼少の頃より熱狂的なサッカーファンで、海外のプロチームのオーナーになりたがっている。そこに至るにあたって財産は問題ないが、海外での人脈と人望がやや足りない。政財界でのロビー活動を有利にするために別荘で違法なパーティーを画策し、そこに相月が協力を買って出たとしたら? 『Diamant』で培った顧客の人脈、セキュリティ管理体制、太い購買ルートを持つ麻薬、さらには宴を盛り上げてリピーターを獲得するための有能なイベントプランナーを提供できる相月が協力してくれれば、大京側は鬼に金棒。相月側も『Diamant』をしのぐ莫大なアガリが見込めるし、政財界の弱みもがっちりと握れる。  細かいシナリオは異なるかもしれないが、大筋はこんなところで間違いなさそうだ。  ――あの耄碌爺が、足りない頭で相月に乗せられて政財界ネタにまで食らいついたとはな。強欲と阿呆は死んでも治らんらしい。  海外諜報機関と日本の公安が虎視眈々どころか堂々と裏社会に出張って、一網打尽の罠を広げるその端緒をみすみす与えるようなものだ。いかな自分でもこのヤクネタの大きさに寒気がする。一歩間違えば崖から足を踏み外すどころか、組が壊滅するではないか。  久城を取り戻すには野脇の証文を無効にすればいいと思っていた。そのためには須之内と久城のネタをこちらも掴み、相月のシノギを先んじて潰せばいいと考えていた。そうすれば久城が横河に脅されている原因を排除してやれるだろうし、貸与の建前もなくなる。結果、野脇も横河の扱いを一考するだろうと。  どうにも、そんな単純な事態ではなくなってきつつある。  もはや証文の破棄という段階は通り過ぎた。  久城を横河に縛り付けている過去の不可解さを知れば知るほど、原因を排除して断ち切るのは容易ではないことを感じる。  一秒でも早く横河の裏切りの証拠を挙げて破門を敢行しなければ、彼の軽挙のせいで組全体が破滅に追い込まれる。  組内でも勢力争いというものは当然存在する。  上下関係の厳しい組織では年長者への敬意も必要だ。  だが直系と傍系の差、シノギや考え方の違い、実力差、そして仲の悪さゆえに、二那川は横河を歯牙にもかけずに来た。見合わぬ貫目に傲慢の鼻柱を支えてもらっている程度の小物にいちいちかかずらっていては時間が足りないからだ。  しかしその小物ごときに老獪を利されて物陰から噛みつかれ掛けているのも、事実。  野脇に横河の処遇を指摘している場合ではなかったと己の若さを嗤うも、まだぎりぎりで間に合うと気を取り直し、ファイルを渋谷に返した。 「渋谷」 「はい」 「相月を呼べ。手打ちをしたいと騙せばいい、俺の口から敗北宣言を聞きたさに飛びついて来るだろう。奴は叔父貴とつるんでるんだから名古屋と大阪を往復しているはずだ」 「判りました。どこに呼び出しましょうか」 「『秋』だ。正岡には俺から話を通しておく。一秒でも一分でも早くだ、久城どころか組の命が懸かっている」 「畏まりました」  あわただしく書類を仕舞い、膨れ上がった重そうな革鞄を持つと渋谷はきびきびと挨拶して出て行った。  
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