第七章

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 来客がいなくなった広い部屋はしんと静まり返り、夜の冷気が足元から忍び寄る。  二那川は酒もやる気になれず、ホテル内のジムを利用する気にもなれず、ソファに背を預けて目を閉じた。  横河のヤサから逃がされた女の顔も、もう思い出せない。ひとたび久城の痕を使い果たしてみれば、彼女はただの女に過ぎなかった。向こうも水商売の玄人、一夜で途切れる縁と承知しており、朝になれば身支度を済ませて配下の車でシェルターに去った。   久城が横河に攫われてからもう十一日。  田中からの連絡は定時と謳いながらも先方の都合でしょっちゅうずれ込むのだと渋谷がぼやいていて、今のところ久城の食欲は戻っていないが固形物は時々ながらも摂れるようになり、体調はそれなりに安定しているとのことだった。 『もっと詳しく話せといくら言ってもあの田中とかいう金髪野郎、律儀にちっとも話しやがらないんですよ。時間も守らないし、クソすぎて道頓堀に放り込みたいです』  頭も口も速く回る渋谷は関西で言うところの典型的な“いらち”で、よく久城に窘められていたのを思い出す。  苦笑しながら瞼を押し開いたところで、久城はここには居ない。  居ないのに、探してしまう。先刻まで渋谷が座を占めていたそのソファに腰掛けて、静かに酒に付き合う姿を。  それも当然だ。久城とは十三年を共に過ごしてきた。こんなに完全に離ればなれに――それも不本意極まりない形で――ひとりの時間を送るのは初めてだった。  二那川は、昔から自分の気性の強さは承知している。  だからこそこの地位を獲れたという自負もある。  一方で、それは久城がずっと傍にいたからこそというのも理解している。  出会ったときから性格の違いをお互いよく判っていたが、必要最小限を喋る程度ではあっても、久城と居るだけで他のどんな人間と過ごすよりも心癒される、充実した時間になった。彼の落ち着いた佇まいや、唯唯諾諾ではなくはっきりと反論も述べてくる芯の強さ、抑制の効いた清涼の声が不思議と馴染んで心地良かった。だから早くから弟分として目を掛けてきたのだが、貫目が上がって周囲との軋轢や嫉視が増えるにつれ、久城がこの激しい気性をうまく宥めて緩和してくれる場面も増えていき、己の中で彼の重みは大きくなる一方だった。  まさに右腕と言っていい存在を好奇心に駆られて抱いて、彼の別の顔を知ってからは、ますます手放せなくなった。  とはいえ身体の関係を結んだ後も、彼の印象や付き合い方の基本は同じだ。マンションでもこのホテルでも、久城を呼んだ時はシノギの話からとりとめもない雑談や噂話に流れ、最後はどちらからともなく無言でグラスを傾けるのは、以前も今も変わっていない。  ――いや、違う。    二那川は自分の嘘を否定した。  関係を深めてからの自分たちは、たったひとつの刻の訪れを、互いに待つようになった。  ごく微かな息づかい、交わされる眼差しで身体の裡に少しずつ満ちてゆく情欲が、溢れこぼれる瞬間を。  その芳醇の雫を取りこぼすまいと唇を重ね、あたたかな肌を暴いてしまえば、あとは時間を忘れるまで縺れあった。久城がこちらの名を呼ぶあの声を何度でも聞きたかった。過ぎる快楽に涙を浮かべて宥恕を求めるあの眸が見たかった。身悶えながら昇りつめ、嬌声を上げて果てた身体を、離さなかった――離したくなかった。  己ひとりのものだったあの躯が他の男に組み敷かれていると思うと、気が狂いそうになる。  それがこの世でもっとも厭悪する横河なら尚更で、あの老人の性格と反目を嫌というほど知っていながら、なぜ守ってやれなかったのかと歯がゆくて仕方がない。  だが、もっとも辛いのは、誰よりも深く傷ついているのは久城本人なのだ。それに比べれば、この切歯扼腕さえも軽いもの。せめて一刻も早く救わなければ、彼の心身に刻まれるダメージは治癒不可能になってしまうことは明らかであったし、こんな卑劣な罠を仕掛けた男たちを地獄の底の底まで叩きこんでやらねば気が済まない。  ――舐められたもんだな、俺も。  歳月の経験値は劣ろうとも、野脇弦大に直々に見込まれ若衆頭を任された者としての矜持はある。その矜持に賭けても売られた喧嘩、諮られた背叛には必ず報い、荒療治を断行しなければ。  テーブルに乗せていた携帯電話が鳴った。渋谷である。 「俺だ」 『頭、ご指摘どおり相月は関西入りしていました。明後日の夜九時に店に来るよう言っておきました』 「判った」  相月が会合を承知した時点で、カードの並びはこちらに有利だ。  二那川は通話を切った電話を寝室の充電器に繋ぐとシャワールームに向かった。いつ急報が入るともしれない現状、睡眠は取れるときに取っておくに()くはなかった。
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