第八章

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第八章

 相月との会合が夜に迫った当日の朝、二那川は野脇に長めの時間を作ってすぐに来るよう命じられた。  正直なところスケジュールは空いていなかったが、頼んであった例の件の結果と察しがついたので、渋谷にあとを頼んで十時に野脇の事務室に入った。 「おやっさん、失礼します」 「おう、入れ」  ノックして返って来た声を耳にした瞬間、これはたしかに長くなると直感した。  扉を開いて足を踏み入れれば、すでにソファに座っていた野脇は深刻な雰囲気を濃厚に漂わせ、いつもの冗談好きな様子は微塵もない。目つきも頬骨の皺も濃い影ができるほど厳しく、尋常でない調査結果だったことは疑いを入れなかった。  ローテーブルに乗った、3cmはあろうかというファイルの厚みもそれを裏付けるものだった。 「無理を言うたな二那川。まあ座れ、長くなる」  「失礼します」  二那川が座を占めると、野脇はコーヒーを持ってきた若手を下がらせ、やや切り口上気味に始めた。 「結論から言うてやる。須之内の件は、本当のところは掴めんかった。ただ久城の前はこれで間違いないやろうという所までだいたい洗えたわ」 「ありがとうございます。さすがおやっさんですね」  長年野脇組を率いてきた肩書きは伊達ではない。二那川は素直に感嘆し感謝した。  情報通の車田と彼自身の人脈を使って、謎の力によって消されていた久城の前歴を炙りだすことが叶ったとは。  箱から取り出された野脇の煙草に火を付けると、まあ読んでみいと促され、項目別のタグが整然とついたファイルを開く。  そこには不動産の関係書類の写しがずらりと並んでいた。 「お前が調べたように役所関係はアテにならへんからな、見ての通り、不動産の線から辿ったんや。久城は極道になってから何回か引っ越ししとるが、それをさらに遡って大学退学直後の十四年前に、L県で借りとった古いアパートがやっと見つかったんや」  野脇はバブル時代に各地の地上げに関わり、不動産業界の知識も深いのを二那川は思い出した。  なるほどそのアングラ人脈であれば残っている書面や記憶、情報もあろう。 「L県ですか。奴が出身だと話していたA県の隣ですね」 「せやな。そこを借りるとき、保証人になった奴がおる。不動産屋の契約書は空欄のままやったが当時の大家がよう覚えとった。甲斐朋数(かい・ともかず)という警察庁の人間が、その保証人やったんや。アパートは古うなってて三年後に取り壊す予定やったんやが、それでもええいうことで三年分の家賃を前払いされて、じゃあどうせ壊すし敷金礼金はいりまへんわとなって、記憶に残ったらしい」 「なるほど。ですが、警察庁勤めの男がなぜ保証人を? 久城はちょうどそのころ両親を亡くしたと言ってましたが、親戚はどうしました」  保証人欄が空の契約書コピーを眺め、首を傾げた。  大学を出るか出ないかの年齢であれば年嵩の親戚はまだまだ存命で、現役の職にあるはずで、まずはそちらに保証人を頼むのが筋だろうに。  ところが野脇は煙草を挟んだ右手でこの疑問を封じた。 「あとで自然に判る、まあ聞け……その警察のバックがあるから、不動産屋も大家も保証人空欄の特例で貸したのや。そこまでの男ならキャリアやろから経歴を探ったら、甲斐のT大法学部時代の同期に“久城義明”という男がおった。友人同士で、二人揃って当時の国家公務員上級職の試験に合格して警察庁入りしたんやがな。久城義明は十四年前、N県警本部長の内示直後に突然死してしもうた」 「久城、義明」  北陸を本家とするくだんの戸籍に、そんな名前はなかった。 「ファイルの五ページ目に写真がある。二十代の時のやが、相当な男前やねんぞ」  ぱらぱらとページを先送りして発見した一枚の古い白黒コピーに、二那川は思考を打ち抜かれるような衝撃を受け、絶句した。  十三年前、組に入ってきたときの久城とそっくりな面差しがこちらを見つめていた。 「これは……おやっさん」 「判るやろ――わしもそれを見たときはたまげたわ」  いったん野脇を見上げ、何とも云えず辛そうなその表情にまたも驚かされつつ、再び写真のコピーに視線を落とした。  面長気味の輪郭、すんなりと通った鼻筋、上がり気味の形の良い眉、薄くも厚くもなく整った口元。ストレートの髪質。そして何よりも、聡明で清冽な雰囲気。目元がすっきりと男らしい奥二重であることを除けば、久城に極めて近い血筋をまざまざと見せつける人物である。  そして十四年前に亡くなったというなら、杯を貰ったときの久城の話と矛盾しない。 「この久城義明という男は、久城の父親ですね」  野脇が深々とうなずく。 「間違いない。彼も優秀やが、同期でキーマンの甲斐の経歴も堂々たるもんや。一貫して公安畑を歩いてきとってな。一時期経歴が空白になってからM県警本部長、警視副総監のあとで、定年退官間際の今は内閣情報官やと」 「空白の時期は、裏理事官だった?」 「おそらくな」  そうか。そうだったのだ。  久城の過去が公的書類を中心に操作され、動かされていたのは。 「公安トップになれるほどの男なら、久城の前を操作して攪乱するくらい朝飯前でしょうね。しかしそれが本当に甲斐の指示だったとして、何故また同期の息子の保証人になって、記録まで弄って――」  言いさして、二那川の全身の血が凍りつく。  ピースが新たな場所に次々と嵌ってゆく、あの独特の感覚がまたも現れた。 「ちょっと待って下さいおやっさん、久城の父親が十四年前、“県警本部長”に就任する直前で“突然死”とは、まさか……」 「気づいたか、二那川」  煙草を灰皿に置いた野脇の顔は、もはや沈痛に近い。  約十五年前、県警キャリアを殺してその場で死んだという須之内。  十四年前、県警本部長になる直前に亡くなった久城の父。  そして久城の父の弟に当たる須之内。  二那川は呻いた。 「須之内が殺したというキャリアは、奴の兄貴、久城の父親でしたか――」
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