第八章

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 久城義明が順調に警察庁入りできたのは、すなわち公式には二人の縁を示すものは存在しないことになり、妹の夫などの義理の線も消える。名字も違う上に入庁時の身元調査にも引っかからなかったなら、やはり須之内は認知されていない弟か。  ゆきずりの男性を殺したら相手が実は血を分けた兄だったというのは偶然がすぎる。少なくともアクションを起こした側の須之内本人は己が久城義明の弟であることと、兄の居所を知っていて殺したはずだ。  では、殺しの動機は何なのか?  身内を殺す原因は怨恨、借金、遺産争い、家庭内暴力、虐待などがある。今回、可能性がありそうなのは前者三つ。  さらにもうひとつ判らないのは、その殺人者を久城も“父の弟”だと認識し、職業も把握していたことだ。  それはいったい何故なのか。  ようやく謎が解けたと思えば別の謎が現れ、明確な光明が見える兆しが少しもない。  さしもの二那川も混乱から抜け出せず、ファイルの文面を読もうにも思惟を整理する必要がありそうだった。 「二那川、まあコーヒーでも飲め。冷めてしもうたがな」  一服を促す野脇のカップも口を付けた形跡はない。 「こんなお話を立て続けに聞かされて、飲む暇なんかありませんよ」  仕方なく二那川はブラックコーヒーを機械的に喉に流し込んだ。いつの間にか口中が乾き切っていて、意外にも気散じになった。  半分ほど一気に干したところでファイルを開き直し、改めて『久城義明』の項に目を通した。  ただの一度も歩みを止めたこともなければ、挫折というものも存在しないトップキャリアにふさわしい経歴が、そこには並んでいた。 「久城義明の名前が判れば、あとは早かったんや」  自分もカップをようやく傾けた野脇が、二那川がレポートを手繰るスピードに合わせて正確に続ける。  手元の調査報告書と彼の話を総合すると、久城義明はA県発祥の素封家に生まれた一人息子であった。大学卒業後に警察庁に入庁、すぐ結婚。都内の数箇所の官舎に住んだが、息子の瑛人が六歳の時、出身であるA県警の刑事部長に就任したのを機に地元に家を建てた。彼の実父はすでに故人でも本家を率いる実母が健在で、家の建築をはじめ一家への支援は多岐に渡ったため、裕福な暮らしぶりだったという。  A県警での任を終えて以降の本庁や地方勤めは単身赴任で、各地の役職や本庁の捜査畑、公安畑を経ながら四十五歳で警視長に昇進、四十六歳でN県警本部長の内示をもらった処で、経歴は切れている。  義明の実父、つまり久城の祖父義寅が県議会の議長を務めた名士だったのも出世に寄与したにせよ、もともと優秀な上に爽快な人柄も好評で、引く手あまただったという証言が多く得られていた。野脇がN県の古株の組にも訊ねたところ、当時本部長に内々に決定した時も県警内の揉め事が一切なかったというほどであるから、よほどであろう。  かように本人は身綺麗であったが、父親の義寅は残念ながら古いタイプの資産家、権力者を絵に描いたような人物であった。  遊びが過ぎて水商売の女に息子を生ませ、認知はせず、かわりに愛人に大金を与えることで因果を含めて九州の片田舎に追いやった。その隠し子が須之内次郎ということだった。 「これがまた兄貴の義明とは正反対の野郎で、捻くれ者の上にすぐ手が出る奴で院送りも数回のありさま、母親は手を焼いたあげくに残りの金を持って失踪したっちゅうんや。それで本人は完全に荒れてしもうて、院を出た後に上京して小さい組のヤクザになった。飲んでもすっきりせえへん、悪い酒になりやすかった奴で、親への恨みつらみをよう愚痴っとったらしいわ。本当なら議員の息子やのに、お袋が俺を捨てたとな」  須之内の行きつけだったスナックのママが偶然持っていた写真と、久城義明のそれを見比べた。  たとえるなら前者は道端の名もなき砂利、後者は磨き抜かれた純度の高い宝石。  それほどに印象が異なった。  ろくな育ちも知性もないと一目で判る粗野な須之内と、素封家で育てられ国内有数の難関大学を卒業してキャリアとなった義明では品格にも風采にも差がありすぎた。  それでも彼らの鼻筋や顔の形にかなりの類似を認めるのは、血のなせる技か。不思議なものだと二那川は思う。  須之内と久城も元は同じ血と察せるほどには似ているから、横河は久城が野脇組の一員になり『叔父が極道だった』と語った時点で須之内の甥だと気付いていたのだろうに、十三年も黙っていた執念のおぞましさに不快感が止まらない。  眉宇に深々と皺が寄るのをもはや隠しもせず、二那川はレポートの内容を次々と読み下していったが、十四年前の十二月、A県の県庁所在地で発生した火事についての証言一覧に意識が吸い寄せられ、顎に右指を添えた。 「火事、ですか。新聞の切り抜きもないのは、ニュースになっていない? 珍しいですね」 「それな。あるわけがないんや」 「……つまり、これが久城の父親と須之内の事件なんですね、おやっさん」  野脇は沈黙で肯定し、手振りでファイルを二那川から受け取ると老眼鏡を掛け、該当ページを一発で捲った。  あちこちから得た情報の断片を若手や車田の助けも借りながら段取りよく整理し、多忙の合間を縫ってきっちりとファイリングしたばかりか、二那川を呼ぶ前に何度も読みこんだことが判る。  こういう徹底的かつ緻密な仕事ぶりと地頭の良さを横河は一切持ち得ないし、才覚もない。そこが大組織の組長を張る男と、舎弟頭という名目に寄りかかって権利ばかりを振りかざす男との決定的な違いともいえる。 「消防署の火災原簿も“紛失”しとってな。当時の近所の住民が数人残っとったのと、定年退職した消防士と刑事からようよう話が聞けたわ。それもわずかばかりやけどな……火事があったのは久城一家が住んどった家で、中で久城の両親と須之内が遺体で見つかったんや」  両親は死んでいると久城に聞いたとき、別々のタイミングで喪ったとばかり思い込んでいた二那川は驚愕した。 「え? 母親も一緒に亡くなっていたんですか」 「せやで。知らんかったんか? 何せ冬場やから、遺体の身元確認に手間取るくらいの、あっという間の全焼やったんや。久城も喉や手足に軽く火傷してしばらく入院しとった。火元は台所の鍋やったらしいが」
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