第八章

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「須之内も中に居たなら、奴が油を撒いたのでは?」 「それはない。ほんまに料理中の偶然やったいう結論が現場検証で出とる。母親が揚げ物しとる最中にでも揉め事があって、火を消し忘れたんとちゃうか」  近所の男性によると、久城家の台所付近から煙が上がっていることに気付いた隣家の住民が119番。敷地内に入って水道ホースで外壁の消火を試みるも、すぐに火が回った。夫妻と長男の瑛人の在宅が目撃されていたことから、男性らが辛うじて火が届いていなかった玄関を突破したところ錯乱状態の瑛人を発見、皆で外に引きずり出して救助したが、夫妻は助からなかった。 「男性らに『母が中にいる』と久城は何度も叫んで訴えたが、父親と須之内のことは言わなかったらしい」 「父親たちがすでに死んでいるのを、あいつは知っていたということですね……そして脱出時点で、母親はまだ生きていた」 「おそらくな。検視で父親の腹と胸から四箇所の銃創、須之内は血中からアルコールと胴に四箇所の刺し傷、母親は一酸化炭素中毒が死因やと判明した。三人の死亡推定時刻はほぼ同時やが、父親と須之内は煤を吸い込んどらんかった。お前の言う通り、火事の前に死んどったいうことや」  スミス&ウェッソンの模造銃が須之内の右手に、包丁が腹部に刺さっていたが、何が起こったかは久城もショックでろくに説明できず、警察にも大した証言は残っていないということだった。  二那川は初めて耳にする久城の過去に、右肘を腿に突くと額を掌で覆い、目を閉じた。  ――母さん、駄目だ、あぶない、行っちゃだめだ――  眠りの際にうなされ、そう呟いては手を動かしていた久城。  痛ましい呼び掛けは、かすれた悲鳴で終わるのが常だった。  きっと夢の中では力の限り絶叫し、呼んでも戻らない母に腕を差し伸べているに違いなかった。 「須之内が兄貴に鉛玉ぶち込んだのは確かやが、包丁の柄はおろか三名全員が火に巻かれとって、その場の誰が須之内を刺したかは判らんままや。傷の角度と深さからして自殺の線はないらしいが――久城は父親が家族をかばって須之内を先に刺したと言うたが、四回も刺された男が引き金を四発引けたかちゅうたら、疑問やろ……救出されたときに血まみれやったもんやから、警察は息子の瑛人もかなり疑ったそうなんや」 「二十歳超えの男子大学生なら、体格的に須之内を充分刺し殺せたでしょうしね」 「そう、そこなんや。せやけど何せ県警本部長になろうかっちゅうT大卒のキャリアで地元名士の跡取りが、ヤクザと相討ちになって銃殺された大事件やからな、一日も早い揉み消しが優先された。前科者の須之内が酔っぱらって押しこみ強盗と放火殺人をやらかしたのが偶然にも県警幹部宅やった、という形で無理矢理決着させて捜査は打ち切られ、被疑者死亡の形で終わってしもうたんや」  久城義明本人も妻子も名前が表に流れず、火事さえニュースにならず、警察内でタブー化したのはそれが理由なのだという。  捜査がなくなっても、息子の瑛人はそれで終わるわけが、終われるわけがない。いくら大学生といえど叔父に父が殺され、母も助からず、家が全焼してしまった修羅場を見たら気もおかしくなる。堅気育ちの人間なら、なおさら立ち直れはすまい。  義明の写真を目にした際、判るやろ、と応じた野脇の表情の意味を二那川はやっと悟った。  裏社会で頂点を獲るまでに人間の業、醜さ、卑しさを嫌というほど目の当たりにして、逆に利用すらしてきたであろう野脇にとて、見たくないものはあるのだと。  すなわちまっとうに、幸せに暮らしてきた人々が罪人の悪意に敗れる、あまりにも残酷な悲運の姿。  野脇の沈んだ表情は、それを見てしまった者独特の陰鬱であった。  深い溜息をひとつ、胸郭から押し出すように吐き出すと、二那川はようやく頭を上げることができた。  老いた侠客の顔にも自分と同じく、すぐには呑み下し切れない遣り切れなさと、精神的な疲労が垣間見えた。 「……久城の記録を甲斐が消したのも、その揉み消しの流れだったのか――これは確かに、あまりに事件が大きすぎます」 「公式記録を弄ったのが奴がうちに入る前か、入った後かによって理由は微妙に違うやろが、おおむねはそうやろな」  須之内殺害の容疑が消えていない生き残りの長男がどこに居るかが広まれば、マスコミがいつ事件を蒸し返すか知れたものではない。久城家もこんなスキャンダルが地元に残りつづけるのは避けたかったであろう。  現在、“久城義明夫妻の長男”は、戸籍上はいちおう生存しているが住民票はくだんの古いアパートから移動していない。しかしその建家は予定通り十一年前に老朽化で取り壊されており、実質は所在不明の扱いである。甲斐はそこまで狙ってあえて選んだのかと二那川は唸った。  今の久城が用いている戸籍は北陸出身の久城姓の故人に架空の記録を加えたものと推測され、二那川の直感はまさに的中していたことになる。したがって、記録のみで判断するなら両名は“別人”であった。母方の名字に出来なかったのは事件段階で祖父母とも他界しており、そちらの遠縁への災禍の波及を避けるためという決断でもあったのであろう。  車田に須之内の噂を教えてくれた関東の親分は言った、『県警のキャリアを強盗で殺して、その場で自分も死んだ』と。  自殺したなら『自殺した』という明確な語彙になる。  自分も死んだ、という曖昧な表現がすなわち、現場でどうやって彼が死んだのか、殺されたとすれば誰が手を下したのかが不明のままという証左。葬られた事件であろうと、こうして一縷の真実が膨大な隠蔽を穿ち、虚偽に混じって伝わってゆく。  入庁後も久城義明と親しく交流があったのだろう甲斐が公安部隊の精鋭として瑛人の過去操作を徹底的に行ったのは、その恐ろしさを熟知していたからに他なるまい。家を失くした瑛人がアパートを借りる時にもあえて親戚縁者の記名を避け、甲斐の権限で押し通したのも、その一環。実際、野脇組組長の大昔の情報網でもってようやく一部が手繰れたという工作度だったのだから、警察の本気度が測れようというものだ。
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