第九章

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第九章

 夜の九時。  久城の過去を聞いた後の二那川は、激怒のはけ口を探して荒れ狂い、出会う傍から獲物を引きちぎらずにはいられない虎と同じであった。  扈従と共に『秋』に到着したとき、出入口で若いボーイが待っていた。先方は到着しています、こちらも準備済みです、と声を潜めて報告する。  肩を叩いてねぎらい、二那川は店内に足を踏み入れた。    見慣れたダークブラウンのインテリアの奥に、着ぐるみのようにずんぐりと派手な中年男が座る一角があった。  ソファの傍には、連れてきたのだろう配下が五名。ボディチェックで拳銃は取り上げてある。  カウンターで控えていた正岡と、赤いドレスを着たホステスのNo.1が二那川に低頭する。女性店員は彼女以外は避難させ、ボーイに扮した若い組員を数名とあらかじめ指示していた通り。頷いて、くだんの男の前に歩いて行った。  二那川は手で払う仕草をして、五名を遠ざける。  そのかわり渋谷らも自分から距離を取らせ、ほぼ相手と一対一の体制を取った。  猿顔の肥満体形で頭頂部も薄い五十歳の小男は、彩度の高い青のジャケットに黒のスラックス、悪趣味な黄色の柄物シャツとネクタイをビール腹に巻き付けるように着て、尻と太股を前にだらしなくずらしてソファで足を広げている。テーブルにアイスペールと酒のボトルが何本かあるが、手を付けた様子はない。いちおう待っていたらしい。  左手をポケットに突っ込んで眼前に立った二那川の長身を男は上目遣いにじろりと睨み、歯茎を剥きだした。 「来てやったぞ、二那川。そっちは狂犬付きかよ、うぜえこった」 「相月、よくそのツラをキタで見せられるな」 「よく言う、手前が手打ち話がしたいとかで俺を呼んだんだろうがよ」 「ああ、その通りだ。だから塩を撒いてやりたいのを我慢して酒まで奢ってやるんだ。忠告しておくが今日の俺は腹の虫の居所が悪い、長たらしい話をしてあんまり怒らせるなよ」 「やけに威勢がいいな。手打ちをお願いして土下座する側の態度か、それが」    無視してカウンターに合図すると、髪を結いあげた赤ドレスのホステスがシャンパングラスを二個、盆に乗せて音もなく現れた。  セクハラ好きの悪評に恥じない脂ぎった視線で女の髪から爪先まで撫でまわした相月は、バイオリンの曲線を優雅に描く背中がカウンター脇のチェストに座るのを見送り、にんまりと唇を捩じる。 「大阪の女は名古屋や福岡より垢ぬけないのが多いが、ここにゃ六本木でも通用するのを揃えてるみたいじゃねえか、二那川。お前の趣味は悪くねえな」  二那川は鼻先で嗤った。 「大阪だの名古屋だの、したり顔で女の器量を選別できるご身分かよ。女だって客を選びたいもんだぜ」  金にあかせて肩で風を切り、各大都市の繁華街に幅を利かせようとも、外見のみすぼらしさは隠し通せない。ブランド物で固めた服装と立場でどうにか体面を保っている自覚は大いにあるらしく、相月はこめかみに青筋を立てて靴底で床を叩き、檻の中から人間に喧嘩を売る猿そっくりな顔でがなりたてた。 「そっちが下手に出て交渉したいっつうから出てきてやったのに、ちょいと紳士的に相手してやったら付け上がりやがって! 女にちやほやされてるからっていい気になってんじゃねえぞ、クソガキが!」 「このツラは俺のせいじゃない。文句なら俺の死んだ親父に言ってくれ」 「………!」  二那川の父は関東寄りの地で相談役を最後に引退したが、関西や東海地方の大物とも仲が良く、人となりは今でも口の端に残っている。相月はとっさの上手い切り返しも為せず、憤然とグラスを取り上げて照明を仰ぐようにシャンパンを干した。 「さて、飲ませてやったところで本題に入ろうか――横河の叔父貴に手前のところのキャバクラとホストクラブの帳簿を渡したな、相月」 「は……? 帳簿? 何をまた言うに事欠いてなんだ、んな大事なもんをそっちの舎弟頭さんなんかに渡すわけがねぇだろが。気でも狂ったか、ヤクでアタマ飛んでんじゃねえのか?」 「あいにく正気だ。手前のことだ、どうせ俺の店の二重帳簿もついでに経理部隊に偽造させてるだろ。俺が上納金を着服してるって濡れ衣着せりゃ、信用も面子も潰せるからな」  推測と確信にはったりを織り交ぜてずばり斬り込んだ二那川の追及に、相月の表情も空のグラスを持つ手も動かなかった。  しかし『は?』という尻上がりの発声に、ガラスが軋むにも似た、ごく微かな動揺の音が聞き取れた。間違いない。帳簿を横河に渡したが、二那川にこうも早く画策を看破されるのは想定外だったということだ。  相月はこれ見よがしに大きな溜息を吐いてみせる。 「やっぱお前、アタマ飛んでるぜ? ずいぶんタチの悪い薬をやったもんだな、早死にするってのに馬鹿じゃねえのか。いい薬欲しけりゃ融通してやったのによ」 「口も軽けりゃ頭も悪い叔父貴を取り込もうとするくらい頭が飛んでる馬鹿はそっちだろ。何しろヤクは手前の十八番だしな」 「さっきから証拠もねえのに意味わかんねえことばかり抜かすなあ、二那川? 手打ちの話はどこ行った、その歳で健忘症か。俺に『ごめんなさい、言うことを聞くから助けて下さい』はどうした?」  相月はうすら笑いを浮かべながら自分でアイスペールの氷をグラスに入れ、スコッチを注ぐなり唇を湿らせる。  繰り出される攻撃をいなしているようで飲み方がせわしなく、目も床を泳ぎ始めている。居丈高に入店して余裕を漂わせていた威勢はどこへやら、完全に間が持たなくなっていた。意気揚々と海に出帆したのもつかの間、燃料タンクに穴が開いて沈みかかった船のようだ。 「証拠な。“手打ち”という単語で手前がこの店にのこのこと来やがった、それが何よりの証拠だ」 「は? お前も知ってるだろ二那川、俺が大阪に来るなんてしょっちゅうだぜ? それの何が証拠だよ、言ってみろよ」 「俺が手打ちをしなきゃならん事態が発生する、手前が五体満足でここから出て行ける、そのふたつの確信をどこから手に入れたかってことだ」 「はっ、ワケわかんねえ。お偉い大学出てんだか知らねえけどよ、回りくどい事を言ってんじゃねえよ! さっさと手打ちの話しろや、この負け犬が!!」  二那川は長い脚でいきなりテーブルを蹴り倒した。  グラスが砕け落ち什器が倒れる大きな破壊音がフロア中に鳴り響き、相月がぎょっと怯んでソファの背凭れに後ずさる。  右の腕と膝で相月の上体を瞬時に押し倒した二那川は、太い喉頸を指でぎりぎりと締め上げた。 「負け犬はそっちだろ、叔父貴の(タマ)を握った程度でうちの組を獲った気でいるのか? 手前こそいい気になってんじゃねえよ」  とっさに相月の傍に駆けつけようとした中島組の若手たちが野脇組の男らと揉み合い、噴きあがった怒号と殺気が店内で騒然と渦を巻き、あちこちでグラスや瓶の割れる音が響いた。 「しゃしゃってくんじゃねえ中島の下っ端どもが、これは俺と相月の話だ、すっこんでろ!!」  狼狽して刃物を取り出そうとした五名が二那川に鋭く一喝され、怯んで前に踏みだすことを忘れた隙に、奥で待機していた野脇組の男たちも正岡の合図で現れ、全員を取り囲んで身動きを奪う。  ソファの座面に背中も右耳も押しつけられた相月はひっくり返った蛙のように足をばたつかせるが、体格も筋肉量も段違いの二那川にがっちりと急所を押さえられ、頭を持ち上げることもできなかった。 「長たらしい話は好きじゃないって言ってやったばかりだろうが。忠告を聞かないからこうなる。軽井沢にある大京の別荘で隠し撮りしてるだろ、出せよ」
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