第九章

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「いつ叔父貴にニセ帳簿を渡した?」 「三週間前だよ、悪ぃか!」 「いや、別に。なぜそのときすぐ出すよう指示しなかったか不思議でな」 「何だか知らねえが、古いダチの命日に弔い合戦するとかなんとか言ってよ、渋りやがったんだ。こういうことはスピードとタイミングが命なのにジジイは古くせえんだよ、今どき」  十二月某日――そう。十四年前、A県の久城家で火事のあった日。  やはりそうだった。その日に偽帳簿を野脇に見せて若衆頭一派に疑いの目を向けさせ、作りものの功績と併せて出し抜くつもりだったか。  二那川は横河の企みを見透かすように目を細めた。  あの老人は己の願望が上手く叶ってゆくことに須之内の怨念の力と縁を感じたことだろう。  が、こちらも同様に感じずにはいられない。我が子と、彼に所縁のある者たちを土壇場で救おうとする夫妻の見えざる力を。  ならば、この勝負は勝たなければならない。必ず。  中島組だけでなく政財界の黒いバックも現れたことに横河は有頂天になり、敵を倒せると自惚れた。兄分の野脇以外に怖いものがなくなった横河は、中島組から与えられた帳簿をタイミングを見計らって出せば良いだけだったのに、須之内の命日が近いことに欲を掻いた。かねてから目の上のたんこぶだった若衆頭を消す前に、仇討も含めてもっとも陰湿な手段で二那川と久城を苦しめることにしたのだ。  口実をつけて久城を奪い、徹底的に二那川陣営を追いつめるつもりが、なまじ後先考えなかったその口実のせいで久城に帳簿を見せざるを得なくなった。ヤサに監禁している以上は漏れることもないと油断したのもあったろう。だが、綻びというものはいったん生まれれば広がるもので、久城から二那川陣営に帳簿と別荘の情報が直接伝わってしまった。  相月の計画は、それなりに良い着眼点に基づくものだった。  悪手は、取り込めそうな幹部が横河しかいなかったとはいえ、彼を傀儡に選んだこと。偽の帳簿を持たせても実力でもぎ取ってきたと思われ、背後を決して疑われないような、有能な幹部を選ぶべきだったのだ。  相月が野脇組内での横河の評価を見誤ったこと、横河自身の強欲と中途半端な状況判断力が招いた隙であり、失敗であった。横河は元博徒らしく賽を振る間合には曲がりなりにも長けていた方だったが、衰えたなと二那川は憐れんだ。 「ほう、こりゃ想像以上だな……海外の富豪やソーシャライツも顔を見せてるじゃないか。元王子の友人か? こうなると公安もマスコミも絶対に探ってくるはずだがな、よく逃れてきたもんだ」  相月は血の匂いを今しがた嗅いだ小型猟犬のような嗤いで応じた。 「始末するのはワケねえよ。あの手の連中は空気と目が違うんだ。悪い遊びに慣れてねえから何人潜りこんで来てもすぐバレる」 「『Diamant』をあそこまでの店にするだけのことはあるな。そこは素直に褒めてやる」  スーツの隠しに自分の携帯電話を仕舞って、二那川は相月の鼻先に屈みこんだ。 「叔父貴を切って二度とうちにちょっかい出さないなら、命は見逃してやる。今まで撮ってきた画像と動画はこれからいただいていくが、要るものだけ抜いたらあとは使わないから安心しろ。手前らはこれからまた撮り溜めればいい話だしな。悪趣味なセレブどもとよろしくやってりゃいい」  言うなり相月のネクタイを掴んで首元で捻じり、乱暴に引き寄せた。  みるみる紅潮して泡を吹かんばかりの顔になった相月の白目が天井を向き、泥を踏みつぶしたような、濁音混じりの息が漏れる。 「そのかわり、データを獲ったことも含めて俺の動きは一切叔父貴に話すな。何を聞かれてもしらを切れ。でなきゃ手前の方が先に大阪湾の水温を味わうことになる。今の時期だと十五分生きてりゃいいほうだが、メタボだとどれくらい持つのかじっくり測ってやるぜ」  決死の形相でやっと一度頭を縦にした男から手を離した。薄毛の後頭部がボーリングボールと同じ音を立てて床に転がった。  二那川は立ち上がり、こちらを恨みがましく睨む相月の視線を冷ややかな軽蔑で弾く。 「例のキャバクラとホストクラブは俺がいただいていく、迷惑料だ。もうこれでうちのおやっさんも叔父貴を切れる。ある意味では手前に感謝だな」 「のっ、野脇が……!? そんなもん黙っているわけねえだろ! 横河は長年の舎弟頭だぞ、若造のお前よりもずっと縁が長い、跡目も取れる男だ、そう簡単に見捨てられるもんか!」  投資した金を回収したいのだろう相月の、意外な往生際の悪さに二那川は呆れ果てた。 「……おおかた叔父貴がそう自慢したんだろうが、それを頭から疑ってない手前もやっぱりヤキが回ったか」 「なんだと!?」 「野脇組の若衆頭はこの俺だ、傍系の枝に渡す跡目なんざねえよ。手前も中島の頭張ってるんなら寝とぼけたこと言ってうちに嘴突っ込んでんじゃねえ、小心者が!」  みぞおちを蹴り上げられた相月がついに失神し、沈黙の底に這いつくばる。  汚いものを見聞きして触ってしまった不快感に盛大に顔を顰めたあとで、二那川は観葉植物も倒れ放題、テーブルもグラスも酒も割れて床に散らばった哀れな店内をひと渡り眺め、傍らのバーテンダーを振り返った。 「よくやってくれた。少々騒がせたな、正岡」 「いえ。そろそろ店内リニューアルの時期でしたし。ちょうどよかったですよ」  元殺し屋らしく、この惨状に抗議するどころかにっこり笑ってのける。二那川も粋な返答に哄笑した。 「後で詫びを届けさせる。どうなりと好きに使え」 「ありがとうございます。遠慮なく頂戴します」
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