第一章

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 また、十二月に入った。  今年も、あの日がやってくる――いや、思い出したくもないことを思い出す必要はない。  川霧のように記憶と自制の水面からぼんやりと浮かび上がって来るそれらを振り払いながら、組長の用を済ませた久城は急ぎ足で事務所の玄関に向かう。この後に待つものを思えば、霧の存在も少しは忘れられた。時間に遅れそうな連絡を、と携帯電話で発信を始めたとき、後ろから耳障りなしわがれ声が降ってきた。 「おい久城、待てや。ちょっとツラ貸せ」  珍しく事務所に顔を出していた舎弟頭の横河の声。振り返れば鼬のように小さく光のない目がじろりとこちらを睨み、顎を振って倉庫へと誘っていた。そういえば事務所に珍しく札が掛かっていたとやっと思い当たり、通話ボタンを切った。  二那川と極めて不仲のこの男が、二那川の配下である自分にいったい何の用だというのか。  ――どうせろくでもない話だ。そう直感し、約束があるからと体よく久城は断ろうとした。  が、横河は距離を詰めてくると周囲に聞こえないよう、声を潜めた。 「のう、久城。お前がなんでこの世界に入ったか、わしは知っとるぞ」 「――? なんで、とは」 「須之内次郎、て名前、判るやろ」 「………!」  久城の冷ややかな眼差しにわずかな動揺が走ったのを見逃さず、横河の口がにんまりと歪んだ。 「せやから待て、て親切に言うてやったやろ? そこで話そうや」  否応なく入らされた倉庫のドアに、横河が後ろ手に鍵を掛ける。  軽い施錠音が、久城の耳には永遠に出られない牢獄の閂のごとく、重く響く。  蛍光灯がひとつきり、暖房も入っていない寒く埃臭い室内で横河は久城を()め上げ、話の続きやと笑った。 「やっぱり、そうよな。“叔父”言うてた須之内のこと、知らんはずはないわなあ。親父の腹違いの弟で、お前の“本物”の父親やからな」 「……私の父は、そんな名前ではありません。お考え違いでは」 「ええか久城、わしはな。その須之内と府中で何年も冷や飯食った仲間なんや。勤めあげたあともな、時々連絡を取り合うとった」 「―――っ」  久城の唇が引きつり、何か言おうとした。だが、音にならない。  横河はふだん感情というものを見せない相手が少しずつ崩れるさまが楽しくてならないのだろう、十重二十重の糸で獲物を捕らえる蜘蛛さながら、粘りつく話し方でじわじわと久城の身動きを奪ってゆく。 「二十七年前、わしは須之内と相部屋になって奴から身の上話を聞かされた。本当なら久城いう金持ちのせがれやのに、一ヶ月違いの正妻腹の兄貴に比べたら自分はゴミ扱いやと散々恨んで、兄貴の美人の女房に惚れとった。せやからお前が組に入ってきたとき、奴が兄嫁に孕ませたっちゅうガキやとすぐ勘付いたんや。お前らは雰囲気が似とる、間違いようもないわ」 「根も葉もないことを……」 「根も葉もない? 正妻腹の息子は中学生の時におたふくやらかして子種がない、いずれ家は絶えるが次郎に家督をやる気は断じてないと、金持ちの親父が須之内のおふくろに電話で話しとったそうやで。それにお前が大阪に出てくる前に実家でどんな事があったか、わしがそれも知らんとでも思うとるんか」  蹴っても蹴っても浮かび上がれない底なしの沼に落ちてゆく感覚。  呑まれてはならない、抗わなければ。  久城は声を絞り出した。 「私の父は、そんな男ではありません」 「ならなんで、須之内をわざわざ殺したんや」  びくりと、久城の肩が震えた。  血の気が引いた顔色が、もはや蝋のように白くなっていることにも気付けなかった。 「殺……した?」 「そうや久城、お前が、奴を殺したんや。お前が大学生のときに家が火事で全焼して、中から両親と須之内の死体が見つかった。警察の捜査じゃ前科者の須之内がお前の家に放火強盗したっちゅうことになっとるが、お前の親父だけやなく須之内も他殺体やったそうやないか」 「っ………!」 「須之内は執念深い奴やったからな、ずっと兄貴のことを恨んどった。兄貴の嫁も子供も本当なら自分のものやのに、兄貴は知らん顔で出世して次の県警本部長とくれば、そら日陰におる側は腹立って殺したくもなるわなあ。で、親父をやられたお前が仕返しに須之内を殺して、二人の死体を始末するために火い点けて、浮気しとったお袋もついでに見殺しにしたんやろ。せやなかったらお前ひとりが助かるわけないわ」  手加減することなく、久城を着実に追いつめて行こうとする情報の数々。  博徒の出である横河は、ここぞという嫌がらせの賽の振り方は憎いまでに心得ていた。 「ばかばかしい、どこにそんな証拠が……」 「無駄や。須之内が死んですぐ、わしは親しかったデカから事件のことを聞いとるんや。証拠なんぞなくとも、状況が全部揃うとるわ。大学生ならヤクザを殺せる腕力はあるしな――親父が県警トップのキャリアやったのをええことにまんまと事件を迷宮入りさせて、知らん顔して組に入りおって。いけずうずうしいにも程がある、厚かましさがお袋によう似とるのう」  深呼吸して、久城はようやく狼狽を落ち着かせる。  頭がふらついて目眩がしそうだが、頽れる前に、この場をどうにか脱出しなければならなかった。  知られていること自体は大したことではない、そう自らに言い聞かせながら。 「……それが真実だとして、なぜ今さら蒸し返すのですか。私の過去に最初からお気付きだったというなら、盃をもらう前にそう言いたてて追い出すことも、貴方なら充分に可能だったはずですが」 「阿呆言うんやない。せっかくのええネタが舞い込んできたのに、追い立ててどうする? 須之内は乱暴もんやったが、何人も殺せる奴やなかったし、惚れた女に一途なところもあった。せやのに最後は警察とお前に何もかもおっかぶせられて、不憫でならんかったんや。せやから千載一遇のチャンスっちゅうやつを、ずっと待つことにしたんや」  判ったなら、これから二週間はわしの言うことを聞け。  それが目的だったのだろう横河は、ついに意気揚々と言い放った。  己は野脇系列の人間で、二那川の配下だ。なぜこの傍系の、しかも不快な男の、意味不明な命令に従わねばならない?  久城は、お断りしますと冷ややかに答えた。 「ほお、嫌とはな」  醜い老顔の目が吊り上がる。  横河が久城のネクタイを引っ張り、無理矢理顔を近づけさせた。 「ほんなら兄貴や、お前とええ仲の二那川に全部、残らず話してええんやな? 淫乱なお袋が亭主の弟と不倫して生まれたお前が、実の父親を殺したことをな? それじゃ飽き足らず、父親ふたりの死体と母親を始末するために家を燃やしたことも? 外道の中の外道のお前がはたして兄貴の勘気を被らずに無事に組にいられるか、見ものやな」  背筋が凍った。  こちらの過去を知っていることを自慢して、マウントを取ってくるだけかと甘く見ていた。よもやそういう手口で来られるとはと己の油断を悔やんだが、もう手遅れであることも嫌というほど察せられた。 「後で兄貴に証文を貰ってやる、心配はいらへん。まず手始めに、お前の体に聞いてやるとするわ。二那川にどれほど仕込まれて来たかをな」  言うなり久城の髪を乱雑に掴んで引き据え、老いの萎びが目立つそれを恥ずかしげもなく口元に押しつけてくる。  久城は顔をしかめ掛けたが、止めた。こちらが嫌がれば嫌がるほどこの男の嗜虐芯を喜ばせることになる。それは矜持が絶対に許さない。耐えるしかないのだ。  黙って唇を開いた。  強い吐き気が込み上げても、久城は耐えた。 「……さすがや、のう……二那川め、おまえをよう、ここまで」  瞬間、歯で食いちぎってやろうかと凶暴な思いに呑まれかけた。   二那川は、こんなことは一度もさせなかった。させてくれなかった、いくら促しても。  お前がそんなことをする必要はない。彼は常にさらりと笑って流し、それよりも、と真顔でこちらを組み伏せ、再度の情交を挑んできた。久城が自制心を忘れて乱れるまで徹底的に責め抜いて、絶対に離してくれなかった。  眼前の横河とはすべてが正反対の、男ざかりの逞しい体躯。紫煙の匂いを纏いつかせた肌、彫刻のように整った顔に浮かぶ泰然とした微笑。本当ならば今ごろは、それらが傍にあるはずだったのに。  そう思うと口惜しく、みじめでならなかった。この卑劣な男に屈さねばならなかった己の出自が、葬り去った過去が。  二度と関わるはずのなかったその記憶が何故よりにもよってこんな刻に蘇り、抗えぬ泥沼へと己を引き摺りこんでいるのだろう。    ――お前は生きなさい、生きるのよ――    焔の奥に消えた声が、解けぬ荊となって脳裏にまつわりつく。  この身を縛り、足元を漆黒の闇に染め、将来という自由を奪い尽くす。  紅蓮の火柱と共に放たれた命令は、久城にとっては生涯の詛いに他ならなかった。  ――俺には、結局こういう道しか残っていなかったのか。  どこまでも穢され、踏み躙られるほうが、自分のような人間には相応しいのかもしれない。久城は叔父に当たる男に奉仕しながら痛む胸の奥で呟いた。  
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