第九章

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 『秋』でのやりとりの録音と相月の携帯画像の両者を二那川から事務室で突きつけられたとき、野脇は自分ひとりで絶海の孤島に漂着したような顔色になった。唇を閉じることも忘れて画面を呆然と眺め、機器をごとりと机に乗せるとわななく手で老眼鏡を外し、両の瞼を掌で覆う。 「なんちゅう……」  脳髄を失望の棍棒で殴られ、打ちのめされた野脇は、白髪頭をぐらつかせた。滑り落ちそうな腕を肘置きに預け、血の気の引いた額を支える。 「二那川、お前……初めからわかっとったんか、これを」 「いえ。叔父貴のヤサにいる久城からの情報をもとに相月を洗い直しているうちに、このネタが出てきました。相月をさっき吐かせて、その足でこちらに」 「なんでや、周。なんでや……」  背叛という名の猛毒を事実として飲み下さねばならなかった喉からは、絞り出される掠れ声が漏れる。  何があろうと、彼は本気で横河を最後まで信じていたのだ。  二那川はデスクの向かい側に佇んだまま敢えて無言を保ち、痛ましく見つめた。  敵には冷酷非情極まりない男だが、同時に身内への手厚い信頼はひとかたならず、ゆえに組は離反や分裂を起こさぬまま二代目襲名後もつつがなく維持して来ることができた。車田をはじめとして、横河以外の彼の子分や舎弟たちも二那川をしっかり支持しているのは野脇の求心力も大いに寄与している。  その組織内で常に不協和音の発信源となっていた横河を可愛がり、陰に日向に庇ってきたのも野脇だった。  だのに横河はもっともあってはならない形で兄分を裏切った。  久城の件に加え、尊敬している人物のあまりに悲痛な落胆の姿を見れば、二那川が横河を許すことなど出来ようはずもなかった。  横河は目だけを動かして二那川を見上げ、呟いた。 「ほなら二那川、相月のシノギを叩くために久城が要る言うのは――周の嘘やったんか」  さんざん示唆して来ただろう、というじれったさを耐えつつ、二那川はうなずいた。 「そうです。おやっさんに見せて功績を認めてもらうためのダミーの帳簿は、とっくに相月が叔父貴の手元に届けてたんですから。久城を連れて行ったのは須之内の敵討ちやら、俺への嫌がらせやら、まあいろいろでしょう。帳簿を入手できていつでも攻撃可能ってことで、どうせなら須之内の命日に合わせて俺を沈めようと欲掻いて、叔父貴も調子に乗っちまったんですかね」  渋谷らが中島組の本拠地である名古屋に相月を連れて行き、全データの在り処を吐かせている最中だと告げると、野脇は唇をぎりりと噛みしめ、しばし瞑目した後にゆっくりと掌を顔から離し、二那川を見つめて重く頷いた。 「……わかった。ようやってくれた」  心を切り替え腹を括った決然の語調に、鋭利な眼光に、この瞬間に四十五年の歳月を棄てて横河を見限ったのだと二那川は知る。  こうなれば野脇は早い。これと決めた彼の行動力、実行力は余人の及ぶところではない。 「幹部のこんな画像や動画が相月の差し金でマスコミに出たら、与党もうちも(しま)いやぞ。証言だけでも命取りや」 「政治家は“黒い交際”だので誤魔化そうとするでしょうが、うちは終わりますね。サツが芋づるとばかりに喜んで乗りこんで来ますし、マスコミの格好の餌食です」 「なんちゅうことをしてくれたんや、相月も横河も」 「――こうなったら、お上の懐に飛び込んだ方がむしろ安全かもしれませんよ」  いきなり突拍子もないことをと言いたげに、野脇が顎を引いて目を見開いた。 「二那川、おい、お前何を」 「データはまだ全部入手できていませんが、B市に墓参りに来た甲斐情報官に接触しましょう。ちょうどと言っては失礼ですが、あと三日で夫妻の命日です。この軽井沢の写真三十枚だけでも充分に交渉材料になりますよ。うちがいずれ引きだす全データを警察に提供することを条件に、叔父貴の縁切りと後始末が終わるのを待ってもらうんです。そうすればうちは難を逃れられると同時に相月を潰せる。時間との勝負です」 「阿呆な、そんな写真、警察も持ってるやろ」 「いえ、公安の連絡員もジャーナリストも何名も始末したと相月が話してました。あいつは『Diamant』にも一度もガサ入れさせたことのない男です、嗅覚は信用できる。サツも証拠が欲しくても得られない状態だと俺は踏んでます」  久城の過去を消したであろう男の存在を知った時から、場合によってはこちら側に引き込めると二那川は直感していた。  が、野脇は呆れ果てたように首を振る。  警察側と存亡を賭けて長年戦い、時には手打ちに持ち込み、時には組織の再編で乗り切ってきたさしもの百戦錬磨の彼も、突拍子もない二那川の提案に諸手を挙げて賛成はしかねるようだった。 「お前、言うに事欠いて……。相手は元公安トップで今は内閣情報官やねんで? 仕事ならともかく、マスコミも職場もうるさいのに私的な場で極道もんと会うわけないわ、あっちにわしらの面も割れとるしな。SPに野良犬みたいに追っ払われて顔も拝めんのがオチやて」 「そうでしょうか? 頻繁に久城夫妻の墓参りに訪れて長男の保証人にもなったくらいなら、久城のこともまだよく覚えていて、見捨てることもないお人だと思いますがね。今の職も知っているでしょうし」 「む……」  火事の件も、不動産の保証人の件も、調べ上げたのは他でもない野脇である。  甲斐の同期かつ友人の息子である瑛人にいかに緻密な(おおやけ)の手が入っていたかを、直接実感したはずだ。  腕を組んで目を閉じ黙然と熟考すること五分、ついに心を決めたか瞼を開くと、おおきく頷いた。 「……わかった。菩提寺のご住職に伺えばだいたいの時間帯もわかるはずや。すぐ連絡してみる」 「ありがとうございます」  横河の謀の全貌が明らかになった今、野脇の目もようやく覚めた。  今すぐにでも証文の無効と絶縁を言い渡すべきであったが、それをすればこちらの動きを悟られる。敗北を察知した横河が海外に逃げるか、短気短絡な性格からしてマスコミに自棄の暴露をしに行くこともありうる。下手なことをされようものなら、官憲はもちろん表沙汰にしたくないVIP側からも組にどんな権力攻撃や禍根が齎されるか判ったものではない。  横河と別荘の盗撮画は、もはや時限爆弾と化していた。  データを回収して横河と連動している者を洗い出し、漏れのないよう囲い込んでから一気に処理しないと危険だ。なんとしても甲斐と接触して全データ提供の代わりに猶予と容赦をもらえるよう交渉し、その期間内に横河と組の繋がりを切り、組を守らなければならなかった。  そして甲斐に会わねばならない理由は、二那川の中にもうひとつ。  証文のことを伏せて野脇から久城の返還を口添えしてもらっても、予想通り横河はなんだかんだと言い抜け、“本人の希望”という形で久城を手元に残した。  組長の口添えも効果がないほど久城の精神をこうも拘束し、横河から逃れられないようにしている切り札の正体は何なのか、事件の詳細を承知している甲斐からでなければもはや聞き出せまい。それを解明しない限り、いずれ第二第三の横河が現れる。  ――あと少しの辛抱だ、久城。必ず助ける、待っていてくれ。  うなされる久城の悲鳴が聞こえてくるようだ。二那川は祈るように心の中で呼びかけた。  
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