第十章

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「いえ、それはなかったと聞いています。ご承知と思いますが須之内は認知されていません。正嫡の義明がいますから、トラブルを避けるために次郎は戸籍上は他人のままでしたし」 「戸籍上は他人……それは充分判るが、DNA鑑定にでも持ちこまれたら愛人母子にも勝ち目が出そうなもんや。もう出始めてたころでっしゃろ」 「久城義寅氏が須之内母子に大金を与えたのはあくまで条件付きでした。もし父子関係を申し立てて嫡子に累を及ぼそうものなら、即座に月々の振り込みを止めるというものです」  二那川は無言で耳を傾けていた。  母親は次郎の少年時代に失踪したと、野脇の調査で判明している。仕送りの口座も掴んで逃げられたことで、院送りの履歴がありろくな職にもありつけない次郎は生活に困窮したはずだ。  身から出た錆であるにもかかわらず酒場で愚痴っていたことは、彼の他責的な性格を裏付ける。  母親が金目当てで正嫡優先を了承したこと、結局は不良息子を見捨てたことを次郎はずっと恨んでいたろうし、すべてに恵まれた嫡子の義明のことも深く妬んでいたのかもしれない。 「義明と須之内に行動面での接点やトラブルがないというのは事件後の捜査によるものですが、実はそうではありません。私しか知らないことですが」 「………!」  ここではじめて二那川は身を乗り出した。 「どういうことですか」 「瑛人君が五歳のとき、須之内が義明の妻である京子さんの前に現れたのだ。瑛人君を官舎の友人に預けて買い物に向かう途中でのことで、通行人が来るとすぐに姿を消した」 「初めて伺う話です。まさかそれが、関西移住のきっかけに?」 「須之内の所属する組が都内にあるので、義明は転勤願いを出して妻子を地元のA県に引っ越させた。久城家の親類縁者のネットワークで守れるからだ。跡取りの孫と頻繁に会えるほうが実母も喜ぶだろうという情もあったのだろう。それで久城家は県庁所在地に家を建て、母子をサポートした」  たった一度、目の前に出現したくらいで、地元に家を建ててまで妻子を逃がすのは過剰反応という気もしたが、どう出てこられるか予測のつかぬ底辺ヤクザの弟相手では無理もないかもしれない。二那川は触れずに質問を重ねた。 「須之内は兄夫婦の顔を見知っているばかりか、付き纏おうとしていたんですね」  推測になるが、と甲斐は二那川に前置きしてから、おのが考えを語った。 「付き纏うという回数ではなく、その一度だけと私は聞いている。奴は自分の父だけでなく兄の名前も知っていて、義明が都内在住と聞いてひと目見てみたくなったか、金をせびりたかったのではないか。久城家はA県の名門で、県の知人に聞けば義明の進学先や就職先はすぐ判明するからね。そして夫妻が一緒に行動している時に行き合わせて、顔を覚えてしまったと思われる。母子がA県に移住したあとは、須之内と会ったという話はない」 「義明氏がそこまでして家族を守り、ほぼ接点もなかったのに、須之内は十七年も経って、A県の家を探し当てて兄を害した――情報官は何故だとお考えですか。須之内の逆恨みしやすい性格からして、母親に捨てられてヤクザになり、ムショ暮らしばかりの自分に比べて、恵まれ過ぎるほど恵まれた兄への一方的な妬み、あるいは出世を邪魔してやろうというのが妥当な線かもしれませんが」 「矛盾しないと私も思う。須之内は事件の二ヶ月前に出所していた。公表されていた警察の人事異動を手掛かりにA県に行き、母子の住所を突き止めたことは考えられる」  問いを真正面から受け止めて答えているようで、その実は何も答えていない内容。満足しきれない二那川は甲斐を探った。  能楽師に似ていると感じた上品な相貌は、感情を表すためにわざわざ筋肉を動かすことを拒み、まさに面を被っているかのようだ。自前の飲料にのみ口を付けるところも含めて職業柄だろうが、しかし虚偽をわざと述べている匂いはない。それを頼りに、改めて深掘りしてみることにした。 「では、瑛人が須之内の存在と職を知ったのはいつ、どこででしょう? 我々が調べた火事の状況と、お聞かせいただいた義明氏と須之内の関係を総合すると、まさに三人が命を落とした事件当日しか該当しないのですが」 「間違いなく、そうだろう。ただ瑛人君は火事のショックが大きすぎて、火傷の治療だけでなく精神科医の診察も必要な状態だった。捜査側が話を聞きたくともドクターストップが掛かって、ほとんど証言は得られていない。さっき君が、彼が飲食を忘れやすい傾向があると言ったが、それも元をたどれば事件のせいなのだ」
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