第十章

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 その心の傷の深さは、二那川がもっとも承知している。  時々茶を啜りながらも興味深そうに聞き入っていた野脇が、怪訝な口振りで質問を挟んだ。 「事件捜査のときは、医者に診察状況を聞いてもええんとちゃいますかいな? “ほとんど”というのはわしも耳に挟んどるが、お話やと“ゼロ”に近いっちゅう雰囲気やな」 「ええ。捜査に関わる場合、医師から診療情報は得られます。しかし瑛人君は精神科医にもほぼ何も話していません」 「義明氏の親友で、家族ぐるみのお付き合いがあった貴方にもですか」  甲斐の打てば響く明晰な返答がここではじめて途切れ、言い淀む気配がした。顔の曇りも霞のごとく一瞬かつ微かなものではあったが、二那川は見逃さなかった。  できれば答えたくないのだ。そこにこそ今回のすべての核心が潜んでいると、二那川の勘が確信した。甲斐も判っているから口にしたくないし苦しいのだろう。だがここで急いて促してしまえばかえって迷いを悪化させる。待つしかない。  甲斐の逡巡は、しばらく続いた。  久城家のプライバシーを守りたいが、生死の瀬戸際にある瑛人の苦境も救わねばならない――相反する意思の板挟みになっているのがありありと見てとれる。  しかし当初の目的が後者優先であることについに決断したか、甲斐はもう一度ミネラルウォーターを飲み、口端を引き締めた。そして押し出すような溜息を吐いてかすかに顎を下げ、低い声で綴った。 「私が見舞いに行ったとき、彼は、こう呟きました……『僕さえ、生まれていなければ』と。私が聞いたのは……それだけです」 「………っ!」  二那川は愕然と息を呑んだ。  野脇と顔を見合わせれば、さしもの彼も眉間に強い縦皺を寄せ、二の句が継げないでいる。  自分のせいだ、というならばまだしも、自分が生まれていなければ、というほど久城がショックを受け、追いつめられた事情。  甲斐は慎重な物言いをしたが、須之内が久城の母親の前に現れたものの通行人を恐れて逃げ、義明が危険と判断して引っ越させた理由――  おそらくそれ以前にも須之内はやましい思惑で京子に会おうとしたことがあり、義明はその事実を甲斐にも話していない。だから甲斐は自分たちに瑛人五歳の時の出来事しか語らなかった。しかし聡明な親友同士のこと、甲斐は察したろうし、察されていることを義明も理解していたはずだ。  夫妻と須之内の生い立ちや性格、状況の断片的な情報と併せて野脇と二那川が至った結論は、久城の亡き母の名誉という点でも考えてはならないものではあったが、おそらく甲斐と同じものなのだろう。  野脇は低く唸ると唇を引き結び、腕を組み直すも、さらに詳細を聞きだして念を押すようなことはしなかった。甲斐も具体的なことは何も付言しなかった。  ――屑野郎どもが……!  重苦しい沈黙が座敷に落ち、呼吸さえ押し殺した無言が続くなか、歯ぎしりを懸命に堪えながら、二那川は何の罪もない母子の心身を暴力で踏み躙った須之内と横河への詛いを胸中で吐き捨てた。  身体中が憤怒の焔で灼かれたように熱い。膝の上で握りしめた掌に爪が食いこむ。  我を忘れそうになる。  男ばかりの集団生活である刑務所は犯罪者が集うがゆえに、罪状自慢もごく普通に行われる場所だ。  二十七年前といえば、疾うに久城が生まれていた時期。横河は須之内から、卑劣粗暴な彼が兄嫁に何をしたかを教えられ、下衆らしく大笑いしながら聞いたに違いない。  刑務所で交わされた何気ない会話の内容、それこそが、横河の切り札となった。  海外にも相手の母親を悪し様にののしる侮辱語があるように、須之内が母に捨てられてヤクザになったように、母親の存在は子の精神面を左右するほどデリケートなもの。横河は久城のアイデンティティを貶め、繊細な心を叩きのめすような語彙で血の秘密を暴きたてたばかりか、よりにもよってあの凄惨な事件と絡めて嘲笑い、徹底的に傷つけることで抵抗を奪ったのだろう。  そしてもし横河が事件のことを兄分に吹き込めば、久城は野脇にやむなく一から説明しなければならなかった。母が以前に須之内に何をされたかも含めて実家で何が起きたのか、なぜ己が極道の道を選んだのかを。  それは息子だからこそ簡単に口にすることも、真実をなぞって思い返すこともできないほど過酷で、両親の尊厳も自身の心も深く傷つけてしまう行為に他ならない。  久城に、選択の余地はなかったのだ。 「結局のところ、二那川君のその質問については、久城家の家屋に侵入した須之内と一家の間に何が起こったかは不明のままということになる。最後の質問である、須之内を誰が殺したかについては瑛人君が証言はしたものの、信憑性も薄く証拠もないままだ。曖昧なことを述べるのは私も差し控えたい――これで、瑛人君を救えるだろうか」  怒りの淵からはっと我に返った二那川は、頭を下げた。 「充分に……答えにくいことをお答えいただき、ありがとうございました。決して口外は致しません、ご安心ください」 「そう願いたい」  甲斐は短く応じると、二那川たちの背後にある掃き出し窓の外に視線を移した。話して良かったのかと自らと厳しく葛藤しているようにも、亡き友に問うているようにも見える、沈鬱な眼差しだった。
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