第十章

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 全身の血がさっと音を立てて逆流するのを感じた。  ガラスの向こうにある山茶花の樹が、室内の気配を悟ったように一瞬揺れた。  高揚で感覚が異様なまでにクリアになってゆく。 「やったか。どこにあった」 『別荘の地下です。相月の子分がやっと吐きまして、名古屋からヘリで飛んで手に入れました。邸内の隠しカメラで随時動画と写真を撮り、このHDDに有線で送って保管していました。バックアップも含めてスタンドアロン状態です。RAIDのトータル容量は50TBですが、実質のデータ量は半分から三分の一程度と思われます。別荘内は一掃したので、これから名古屋まで引き返します』 「判った、よくやったぞ。名古屋と大阪の間もヘリを使えそうか」 『天候さえ良ければ可能なのですが、関西上空が今から悪くなる上に回復の見込みがなく、セントレアまでしか確約できないそうです』 「そうか。ならセントレアからは新幹線を使って帰ってこい」 『畏まりました』  二那川は野脇の側に戻り、片膝を突いて耳打ちした。  心得顔で軽くうなずいた組長が、甲斐に向き直る。 「情報官。ついさっき、うちの子分がデータの入ったHDDを軽井沢で見つけましたわ」  座椅子に胡坐をかく二那川の動きを凝視していた甲斐の瞳が、鋭く野脇に注がれる。 「お宅に引き渡す前にうちもいったん中身を見たいが、よろしいやろな? なに、これをネタにお上や連中を脅したりはしませんて。うちの大馬鹿者がどこの誰と何をしでかしたのか、それを確かめたいだけですわ。お宅がわしらに多少融通利かせたところで、あと二ヶ月で退官なんやから火の粉はかからんでっしゃろ?」  甲斐の瞳孔が矢をつがえた射手のごとく引き締まり、双眸の光が昏くなった。  己たち同様に、危機を前にして狼狽するどころか血が走る豪胆、相手を見極める眼力。直接の暴力をふるう事こそないにせよ、これこそがこの男の本性だ、と二那川は感じる。だからこそ一般人は一生知る由もない闇の事件で暗躍する捜査部隊を長年率いてこられたのだ。  無論それほどの男と対峙して一歩も退かぬどころか渡り合い、手綱の引きを制御してのける野脇の度胸と腹芸のたしかさは言うに及ばず。表裏一体という言葉が、これほどふさわしい場もあるまい。 「ご協力感謝します。我々に渡る前であれば、あくまで『民間人の別荘にあったHDD』にすぎませんので」  つまりは、勝手にしろということである。  ともすれば、官憲すらも匙を投げている特権階級の愚人らを、いっそ裏社会側から陥れ葬ってもらったほうが大掃除の手間が省けるという意図もあるのだろうか。  野脇は我が意を得たりと笑ったが、甲斐は少し待ってくれと前置きし、二那川に目線を写した。その落ちつき払った体勢、刃を隠し持っていると告げられても納得できるほどの気迫に、二那川さえも身が引き締まる思いがした。 「さきほど、君が新幹線で帰るよう命じているのが聞こえた。どういうルートで帰阪させるのか教えてもらえないか」 「HDDを回収した私の子分が軽井沢からセントレアまでヘリで戻り、以西は天候の都合で飛べないため東海道新幹線を使わせます。車だと名神を使っても二時間半は掛かり、時間の無駄ですので。それが?」 「中島組がHDDの奪取を試みないとも限らない。まさに虎の子を奪われた以上、君の配下に危険が及ぶ可能性がある」 「それなりに武装はさせてありますし、当然単身での移動ではありませんよ」 「可能性は低くなろうとも、決してゼロにはならない。念には念を入れたほうがいい。失礼」  語尾を切るなり甲斐は自分の電話を取り出して二那川と同じく縁側に立ち、通話を始めた。 「ああ、私だ――溝江君を」  入り組んだ内容らしい。もちろんこちらには具体的な中身は聞こえない。  声音は抑揚がなく冷静だが、切り口上の強度が違う。頭の回転が早い人間特有の、端的で明快な話し方だ。何か重要なことをやりとりしているのだろうと二那川は推測しつつ、無言で待つ。  やがて甲斐は通話を終え、足早に己の座まで戻って腰を下ろすなり切り出した。 「セントレアから新大阪駅までは愛知県警の、新大阪からそちらの本部までは府警の警護担当が付くよう至急手配した。君の配下がどこの航空会社のヘリをチャーターして、何時ごろ空港に到着するのか教えてほしい。私から担当に改めて伝える」
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