第十章

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 煙草と手洗いを済ませてから甲斐を見送るという野脇を待つために、二那川は縁側に佇んで庭を眺めていた。  雷雲が地域一帯の上空に層をなして集まり始め、鮮やかな庭木も灰色に染まりつつある。雨はすぐそこだ。  真冬でも力強く咲く山茶花の白い花弁が玉砂利の上に落ちた。  仏殿の周りに比べれば小さな庭であろうと手を抜いていないのは、庭木の確かな配置と行き届いた手入れに現れている。紅葉の時期は疾うに終わったが、春夏秋冬を問わず自然の美を楽しませてくれるであろう場所だということはよく判った。 「二那川君」  横に、甲斐が立った。並んでみると自分より少し背は低く、おそらく久城と同じ170cm台後半と思われた。 「お待たせして申し訳ありません。野脇も、もうすぐ来ると思います」 「いや、どうしてもと言われるとね。無下にするのも恐縮だから、気にはしていない」  穏やかな口振りには社交辞令も神経質な怒りもない。野脇が指摘したようにもうすぐ定年退官であるがゆえに、肩書きの割には反社組織との同席を追及されるスキャンダルを恐れていないのか、もともと外柔内剛の気質でもあるのは間違いあるまい。  甲斐とふたりきりになったのを機に、二那川は彼に向いて口を開いた。 「久城義明氏とは大学時代からの親友だったと、先ほど仰有いましたね」 「そうだ」 「久城夫妻は、偽りなく、真に幸せであるように見えましたか」  甲斐が返したのは、なぜそれを問うのか、という流眄。能の面も陰影や些細な角度で情感を示すように、この一時間でずいぶんと彼の表情も融け、こちらにも読めるようになった。本来、情も知性も極めて深い人物だ。久城義明のような心許した人々の前ではもっと打ち解けた態度も見せるのだろう。  こちらが軽々しい詮索で発したのではないことを待ちの沈黙に知ると、彼も身体ごと向き直り、深々とうなずいた。 「あれほど互いを思いやり、愛し合っていたご夫婦を私は他に知らない。瑛人君が生まれてから、その絆はさらに強まっているように見えた。今でもその印象に変わりはない」  親友ならではの先入観や身内贔屓ではないと知れる、虚心坦懐の断言に二那川もまた心のどこかが救われる気がした。  そうであってほしい、久城のためにも。  久城義明の行動の目的は妻子を守ることに終始一貫していた。火事の現場で須之内に撃たれて亡くなったことも、家族を守ろうとしての結果であろう。須之内を瑛人と義明のどちらかが殺めたのも、瑛人が両親の尊厳を汚されないために横河の脅迫に屈したのもそうだ。久城義明も息子も、家族を守ろうとする普通の情愛で結ばれた人々だった。そこに須之内の血が介入する余地も可能性も低いとしか思えないし、そう信じたかった。 「――私は、久城家に縁もゆかりもないただの他人です。しかし、それを伺って安心したのも事実です」  陽光が隠れ、室内の照明が互いの横顔を照らす。  甲斐の虹彩の澄んだ光の向こうに浮かぶ、ある種の連帯感を二那川はたしかに嗅ぎ取った。 「君たちに話したことを、後悔させないでほしいと願っていた……だが君なら決してそうはさせないと、確信できた。瑛人君を、必ず救ってくれ」 「連中をまとめて地獄行きにしてやります」  血なまぐさい宣言に、ふっと甲斐は目を伏せて唇に弧を描いた。  感想を述べもしないが止めもしない、実に彼らしい反応だった。  「二那川ぁ、どこや、帰るぞ! おい山本、情報官をお連れしろちゅうとるやろ、何ぼうっとしとるねん!」  野脇が若手を叱りつける大音に二那川も甲斐も、開け放された背後の襖を振り向いた。  広い座敷を横切り、SPが待つ廊下を通って玄関まで二那川が導こうとするのを、甲斐が制して立ち止まる。 「最後に、私からも訊ねたい。君は、今回のことをどう捉えている? 背叛者の粛清か?」  二那川も足を止めると、口端を冷ややかに歪めた。 「亡霊への復讐ですよ」 「………」  甲斐の瞼が意表を突かれたように見開かれ、奥歯を噛みしめた顎の陰影が濃くなる。  ごく一瞬、この返答を反芻するためか視線を落としたのち、ふたたび彼は二那川を真正面から捉える。 「二那川君」 「はい」 「瑛人君はそちらに入ってからずっと、君の補佐を務めていると聞いた。今も、そうなのか」  しかりと、二那川は答えた。  こちらの目を食い入るように――国家の高みから世の表裏を深く射抜いてきた慧眼が、自分たちの真実をも見通したのかまでは知る由もないが――じっと見つめてきた甲斐は、やがて何かを得心したらしく、静かに頷いた。 「――ならば、君に頼みたいことがある」
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