第十章

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 帰路に就いた野脇組一行の車が高速道路のインターチェンジに入った頃から、窓にぽつりぽつりと細かな水滴が付着するようになっていき、山本がワイパーのスイッチを入れた。  航空会社が関西以西にヘリは飛ばせないと判断したのは賢明だったといえよう。  窓越しの上目遣いで濃灰色の空模様を窺った野脇が、隣の二那川に話しかける。 「一気に悪うなったな。崩れるんは昼過ぎやてテレビで言うてたのに、予報より早ないか? 市内に帰りつくころには大雨で渋滞かもしらんで」 「そうですね」 「渋谷が帰るまでには着いておきたいもんやが」 「ご心配なく、それまでには着きますよ」  平坦でそつのない、しかしどこか心ここにあらずの応酬を察した野脇は、沈んだ真顔で呟いた。 「わしらが果たして、知って良かったんか……二那川」  それが言える野脇だからこそ自分は彼を親と仰ぎ、杯を貰ってここまで付いて来た。  久城もまた。  彼を横河の魔手から取り戻したい一心で突っ走ってきた。だが事ここに至って、他者が触れてはならない領域についに触れたことを二那川も充分自覚していた。その領域を喜んで暴き、弄び、利用した横河と自分が相容れるはずもなかったことも、野脇が弟分をはじめから後継にしようとしなかったことも。  漣のように絶え間のない心のざわつきと野脇の両者を落ち着かせるために、ゆっくりと答えた。 「久城は俺とおやっさんに昔の事をばらすと叔父貴に脅されて、『叔父貴のヤサに行く』と了承を伝えたんでしょう。俺たちは、いずれ、どこかで知ることになっていた――叔父貴があいつの過去を利用した以上、いつかは」  いや……仮に横河が利用しなかったとしても、知るべきだったのかもしれない。二那川は思い直し、窓の外に意識を遣りながら胸中で呟く。  たとえそれがどれほど痛みを伴う残酷な事実だったとしても、久城の魂の慟哭を暴くような行為の不躾を承知していても、先に待ちうける精神の破綻を防ぐためには、彼に信頼されている自分たちこそが、共に傷を負ってでも受け止めてやらなければならなかったのかもしれない。  横河は須之内の性格を熟知していた。事件の動機が兄への嫉妬だけでなく兄嫁とその子への執着――瑛人の出生に起因することも。  組で偶然にもその息子と出会い、叔父のことを語るのを聞いて本人も血の真相を知っていると察するも、今はネタにならないと判断してしぶとく黙っていた。  ところが瑛人は二那川の舎弟になり、自分を脅かす対立勢力の一翼として徐々に力をつけてきた。そこへ持ちかけられた相月への内通。邪魔な二那川を倒せる見通しが立ったことで、ついに横河は行動に出た。  須之内の敵打ちとして、久城を半死半生の目に遭わせて潰すために。  憎悪する二那川にこの上ない屈辱と敗北を味わわせ、懐刀を折るために。  侠客として力を喪いつつあり、追いつけぬ差が開いてしまった老いの焦燥を久城にぶつけるために。  ゆすりを掛けて久城を脅し、ヤサに攫った。  須之内を殺めたのが瑛人だったとしても、それ自体は堅気時代のことであるし正当防衛にもなる。しかしそこに加えて父が実は警察庁キャリアだったこと、大学生時代に本庁マターの殺人事件に関与したこと、その禁忌の事件の引き金が久城の母親と須之内、そして本人との経緯も大きく作用していること。すべてが誇張癖のある横河の口から曲解を交えて、何も知らぬ野脇にまことしやかに伝えられたら――いかな豪放な野脇も、後難を防ぐために久城に転籍を促したことだろう。  加えて、人は時として、自身の名誉よりも愛する者のそれを優先する。久城も母のことを薄汚い横河の口から第三者に暴かれるのは何より穢らわしく、嫌だったはずだ。  それらを恐れた久城は、横河に従わざるを得なかった。  過去の封印を、おぞましい者に触れさせまいとして。
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