第十章

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 だからだったのだ、久城がまともな世界で生きることを諦めた目をしていたのは。  今になって二那川の中ですべての辻褄が合ってゆく。  久城の頻繁な引っ越しは時間と記憶のリセットのためだ。  新天地を求めたり環境を便利にしたり、あるいは人間関係をやり直すために転居する者は一定数いる。ただし久城の場合はそんなポジティブなリセットではなく、もっと根深い。ある種の自傷、自殺の代償行為に近いのではと思う。  自身が生まれてから歩いてきた道も、生命も丸ごと否定して受容できないでいる久城は、同じ場所での時間や愛着が積み重なると突然耐えられなくなるのだろう。しかし命を容易に断つこともできず、住まいを変えることで精神を立て直そうとしてきたに違いない。  組での時間はトラブルや荒事、緊張を伴う裏の交渉ごとの連続で、彼に内省や沈思する暇を与えなかった。結果的には杯を貰う選択が、命を繋いできたともいえる。  久城の過去の詳細を知ってはじめて、二那川は思う。  残酷なことを強いてきたと。  たったひとつでも命を断たれかねない深い傷を幾重にも負った男に、自分は何を与えてやったのか。  ――なにもない。  好奇心から躯の関係を求め、それを受け容れた彼を救うでも助けるでもなく、ただ快楽を共用してきた。  彼が同性のプロと接するのは生来の嗜癖ではなく、母のことが大きく影を落としていたがゆえの、やむを得ない選択だったのに。  ――助ける、か。  久城の悲惨な経験からすると、自分が救う、と考えることさえ傲慢でおこがましい気がする。  けれど。  ――お前はなぜ、拒まなかった。  兄分の命令だからとすべてを諦めて人形のように侍っただけと解釈するには、久城の反応は情熱的すぎた。  肌も、声も、まなざしも、ふたりきりの官能の刻に充分すぎるほど応えていた。彼はこの腕の中で、たしかに“生きて”いたのだ。  それを男の自惚れだと嗤うことは簡単だが、そうしてしまえば何かを見誤ってしまう気がした。  見誤ってしまえば、取り返しがつかなくなる気がした。  ――俺は……これほどまでに、あいつのことを――  二那川は雨脚が酷くなってゆく車外を眺めたままウィンドウの縁に左肘を掛け、口元を掌で覆った。  己の本能は疾うに気付いていても、あえて直視せず、覗きこまないようにしてきた真実。  今日一度も取り出すことのなかったジャケット内のデュポンの重みが、心に響く。箱を枕元に置いて去った久城の指先がいましがた離れたかのように。あのとき目を覚ましていれば、気付いていれば、その手首を掴んで離さなかったものを。 『僕さえ、生まれていなければ』   推論がもし事実だとしても、久城がより濃く引いているのは義明の血だと二那川は感じた。須之内が本物の父親である可能性が高いかもしれないのに、なぜかその印象は変わらなかった。汚泥よりも濁り荒んで光のない須之内の目と違う、清水のように清冽な彼らのまなざしがそう思わせたのだろう。  神というものを信じたことは、二那川は一度もない。  しかし、一人の善良な男にこれほどの重く過酷な試練を次から次へと科したのがもし神だというなら、己はその存在を深く憎む。懸命に生きてきた彼からまたも生きる力を奪おうとする存在を。 「……ほどほどにしとけ、そう言うたやないか、二那川」 「―――」  二那川は答えなかった。勢いを増した雨がウィンドウを叩きつけ、無数の滴となって脆く振り落とされてゆくのを凝視した。  昼前だというのに雲を塗り重ねる陰鬱な空の墨色も、その奥に潜む雷鳴も、今の自分の気持ちを代弁しているとしか思えなかった。  
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