第十一章

3/8

283人が本棚に入れています
本棚に追加
/66ページ
 渋谷たちを引き連れて内廊下を歩んで来る黒コート姿の二那川を目にするなり、玄関のガード番だった田中は顔をみるみる強張らせた。  人非人といえど親たる男を守るべきか、それとも理のある敵を通すべきか迷うも、一瞬ためらったあとで結局進み、扉の前に立ち塞がる。  しかし数歩の距離に近付いた二那川の、激怒を超えて周囲を圧する氷塊の気魄と凝視に若い彼が勝ち得るわけもない。一瞥にさえ耐えることは能わず、すぐにうなだれて壁際に退いた。  怒りを隠さぬ渋谷がワルサーPPKを取り出し、田中の眉間に至近の照準を定めた。  諦めを浮かべた蒼白の若者が両手を握りしめ、震えながら目を閉じる。  渋谷はしばし銃を構えていたが、やがて下ろした。 「とんだノロマ野郎だったが、てめえのお陰で俺に連絡が取れたと久城さんは話していたからな。命は見逃してやる」  エントランスに続いて玄関も管理会社から入手したマスターキーで解錠した二那川は、土足で中に入った。  すぐ後に続いて玄関に入った渋谷は、田中の鼻先でドアを閉じた。   ※ ※ ※  100m2越えの室内間取りは全部二那川の頭に入っている。ベッドルームに使っているであろう部屋はリビング隣の十二畳の洋室。  曲がり廊下の手前で扈従を待たせ、二那川はひとり先を進んで洋室の扉前に立った。中に人の気配。脳裏は冷えている。ドアノブにゆっくりと手を掛けて音もなく押し開けた。  何の変哲もない、白い内装の室内だった。  右の壁際に宮棚を密着させたダブルサイズのベッド。乱れた寝具の上にはぐったりと横たわる傷だらけの白い裸体と、その身体を組み敷いて性具を片手にスラックスのベルトを緩めようとしている、小柄な老体。  二那川の脳裏が、さらに冷える。  足を踏み入れ、後ろ手にドアを閉めた。  組み敷かれていた方は物音に驚いて肘で身を起こし、老いた方はぴたりと動きを止め、顔を歪めながらこちらを振り向いた。 「なんや二那川、ど厚かましいにも程があるわ! どうやってここに入ったっ!?」  真正面にはグレー色のカーテンが掛かった腰高窓、左の壁際には一人掛けのソファが二脚と酒瓶の並ぶテーブルがひとつ。快適性も何もない、急ごしらえの牢獄だった。  押し潰されるような沈黙の中、フローリングをベッドまで躊躇いなく進む革靴の音が、規則正しく、高く響く。  五歩で、足音が止まった。 「久城を引き取りに来ました」 「とち狂うな、二那川。兄貴の証文があるのを早や忘れたか――なあ久城、お前は利口もんや、わしの言うことを聞かなあかんことはわかっとるわな?」  性具を脇に置いた横河は意にも介さず、粘着質な言外の圧で念を押そうとする。蒼白になっていた久城の貌はさらに蒼ざめ、せめてと寝具を手探りしたのを、横河がわざと剥ぎ取った。 「お前が仕込んだだけあるわ。男のくせにええ身体をしとる、見てみい。ちょっと可愛がってやっただけでこの腰つきや」  老人は久城を指差し、若さを吸い取ろうとするかのように白皙の肌を片手で撫でまわしながら口軽く嘲笑を浴びせた。 「こいつは相手が誰でもええんや、母親と同じ淫乱なんや。お前はガキやから知らんやろなあ二那川、こいつがとんだ下種で外道な奴やいうことをな。お前なんぞにこいつを扱えるわけもないわ、そこでたっぷり眺め――」  自身でも直接久城を辱めるべく腰を進めようとした横河の言葉と動きが止まった。右のこめかみに、二那川が無表情に構えるシグ・ザウエルP220が当てられていた。 「そんな貧相なモノでいくら見栄を張っても無駄ですよ。久城の躯は少しも反応してないってのに」 「何やて!?」 「見苦しいあがきは止めろと言ってるんです。証文は無効にした。つまりあんたは終わりだ、なにもかも」  老いた額に流れる汗に、冷たいものが混じり始める。証文が無効になった何重もの意味――久城の過去というカードが使えなくなったこと、野脇に見放されたこと――をさすがに察したのだろう。久城の身体から腰を引き、肉食獣を巣穴から睨もうとする小動物のように、恐懼の眼差しに満身の脅しを籠めた。 「このわしに本気で銃を向けようてか、二那川。わしを誰やと思うとる」 「野脇組直参の横河組組長で舎弟頭、俺の叔父貴でもあった極道。それだけです」 「何がそれだけやっ、わしを馬鹿にするのもええ加減にせえ!」  マットレスに挟んでいた窮鼠の匕首が翻った。二那川は瞬時に左の手刀で落とし、踵で踏んだ。  呻いた老人が手首を押さえた隙に、次の銃口は眉間にぴたりと定められる。 「おやっさんはあんたに何度も命を救われたことを忘れていない、本来なら直参になる力量などないあんたを舎弟頭にまでした、金に女に地位、充分すぎる恩を返してもらいながらあんたは欲張りすぎた。中島組の相月と組んで薄汚いシノギに加担したばかりか、俺を潰して組を割る機会を窺っていた――動くんじゃねえ、証拠はとうの昔に挙がってんだ、俺を舐めるんじゃねえ!!」  一喝するなり二那川は横河の白髪を乱雑に鷲掴み、力任せにマットレスから引きずり下ろした。 「裏切り者の老いぼれが、いつまでいい気になって久城に乗ってやがる!」  猛獣に首根を振りまわされる生餌さながら、老躯が容赦なく床に叩きつけられる。  最後の意地とばかりに雄叫びをあげながら横河が匕首に手を伸ばしたが、革靴の先で顎をしたたか蹴られ、小柄な体があっけなくソファの足元に吹っ飛んだ。  騒然の物音と共にテーブルの角にぶつかった額から多量の血が流れ、刷毛で塗ったようにべったりと顎まで滴った。散乱したグラスや酒瓶の破片が老人の周囲一面に散らばり、アルコールの匂いがあたりに充満する。しかし床に腰を落とした手足は壊れた人形のようにぴくりとも動かず、血糊に開いた小さな団栗眼の穴だけが老人の意志どおりに動いて二那川を睨んだ。
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

283人が本棚に入れています
本棚に追加