第十一章

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「……二、那川、おぼえて、おけ……、わしを……こんな……」 「だから何だ? あんたはもう舎弟頭でもなんでもない、今日付けで絶縁だ。あんたがしこたま貯めこんできた金は全部俺が押さえた、今夜からめでたく無一文だな」  離反を暴かれ落ちくぼんだ眼窩、血走った目、縮みきった殺気。  この男の命運は完全に尽きた、二那川はそう思った。銃をホルスターに入れ、代わりに匕首を拾いあげると一歩ずつ老人に歩み寄る。静まり返った室内で、靴に踏み潰されるグラスの破片が砂利の響きを立てる。野脇直筆の絶縁状を懐から取り出してテーブルに置いた二那川は、刃文に照明を吸った匕首を逆手に返した。  ひっ、と息を引いて必死に後ずさる横河の右手の甲に、容赦なき白刃がするどく振り下ろされた。  窓ガラスが割れるかというほどのしわがれた絶叫が、横河の喉からみじめに迸った。床に串刺しにされた手を引き抜こうにも震えて為せず、脂汗にのたうちながら罵倒を吐きすてる。 「くそっ、くそ餓鬼があっ――! たかが小僧のくせして、おのれ、二那川あっ……!」  眉ひとつ動かさぬ二那川のくちびるに、温度のない酷薄な嗤いが掠めた。  立ち上がって老人を見下ろすと、匕首の柄頭をぐいと足底で踏みにじる。漂う血の匂いがさらに濃くなり、壊れた笛にも似た横河の悲鳴に引きつれた涙声が混じりはじめた。 「この程度で泣きごとを晒すのか? こんなものじゃ到底足りやしねえよ、あんたがおやっさんを裏切った一ヶ月、そしてこの十三年と二週間で久城にしてきたことを思えば、まだまだ甘い。外道どころか畜生以下のあんたを今殺さないのはおやっさんの最後の情なんだってことが、まだ判らねえのか」 「お前、さえ……お前さえ、いなければ兄貴の跡目は、わしが、獲れたはず……なぜお前なんぞを、兄貴は――!」 「とことん頭が悪いな、おやっさんはあんたを後継ぎにする気は端からなかったのさ。だからせめてと舎弟頭の地位を与えたんだ、だのにあんたは不満をかかえた挙句に相月にそそのかされ、俺と久城を潰そうとしたことでおやっさんの信頼を失った。怨むなら手前の欲深さを呪え、血反吐を吐きながらな」  とどめの蹴りが、老人の脾腹にしたたか入った。  蛙が潰れるような息と血の泡を吐いたきり、横河の顎が傾き、動かなくなる。冷や汗に張りついた白髪の乱れはいちどきに二十も老け込んだ男のそれだった。    起き上がってシーツに手を突いていた久城は、言葉も忘れてただ呆然としている。二那川は弟分にちらと目線を移してから、横河が抵抗を失っていることを見極めると、床に落ちていた服をベッドに放った。 「着てこい」  はっと我に返った久城は、羞恥に唇を噛みながら命令に従い、バスタオルを身体に巻き付けて隣室に消える。扉が閉まる音が断ち切られた現実の狭間に落ち、老人の足指がぴくりと動いた。 「恥を知っているなら、おやっさんの温情をこれ以上無駄にしてくれるな。今日は須之内の命日だ、奴の亡霊を連れて失せろ」  必要最小限の身じまいを整えた久城が現れ、傍に控えた。彼をここから早く連れ出さなければならないことは、二那川自身が一番よく判っていた。今の久城に必要なのはこの場所以外での休息だった。自分のロングコートを彼の肩に掛け、踵を返して玄関まで真っ直ぐ向かう。もはや口を利く力も失っている横河は、二人が去る動きにも反応を見せなかった。    呆けた老人が気に掛かった久城はしばし足を止めたが、二那川の背に声なき命令を見、再び歩き始めた。一片の憐れみも掛けない力強い後姿は親を、組織を裏切った男への断罪だった。  廊下に出れば、すでに横河の子分たちは影も形もなかった。  代わりに渋谷がおり、二人を認めると一礼した。この分だとエントランスは言わずもがなだろう。  久城は重い玄関のドアを、後ろ手に閉めた。電子ロックの施錠音が、夜の静寂に響く。二度とこの敷居を跨ぐことはない。跨ぐ必要はない。エレベータホールへと進む二那川の足音が、渋谷の安堵の表情がそう教えてくれた。叔父との縁を含めて完全な他人とは言いがたかった横河だが、しかし一切の感慨はなかった。権力と欲望の使い方を誤った末に兄貴分たる組長の恩までも穢し、若衆頭に弓を引いた男の末路に同情など断じてできようはずもなかった。  一階に降りると、黒服を着たサングラスの男ら三名がエントランスを進んで来るところであった。車田組の中堅で“事後”処理専門の部隊である。  二那川と久城の姿を認めるなり男たちは立ち止まり、一斉に辞儀をした。 「若頭、お疲れ様です。うちの親父の指示でこちらに参りました」 「そうか。叔父貴には何度も世話を掛けるな。後は任せたぞ」 「とんでもない。では、失礼します」  三名はエレベーターに向かい、扉の奥に消えた。  車寄せに用意されていたレクサスに乗り込んだ二那川は、自身のマンションへの道筋を命じた。  闇にまばゆく瞬く街路の濡れた灯。今が夜であることも、市内に雨が降っていたことも判らなかったほど感覚が狂っていたことに、久城は横河に強いられた監禁生活の異常さを痛感した。 「おやっさんには俺が話を通してあるし夜も遅い、お前の挨拶は落ち着いてからでいい」  否やを言わせない二那川の前に久城は抗うことも為せず、シートに背を預けるにとどまった。  
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